うかつというか、不覚というか、「藤戸の合戦」というものを、ここ備前・岡山に来て初めて知った。
1184年の源平の合戦で、あの一の谷の合戦の10か月後。
源氏方の大将は蒲冠者範頼、つまり義朝が七男、あの乙若丸というではないか。
さらに、源氏の将・佐々木盛綱は、この合戦で騎馬にて海を渡り切り、先陣を果たし、みごと平家軍を打ち破っているかっこいい合戦だというのに。
佐々木盛綱といえば、我が信州・松本に墓所のある佐々木四郎高綱(了智上人)、あの宇治川先陣一番乗りの猛将の長兄ではないか。
宇治川先陣争いの話は、大昔から知っているのに。
うーん、「知らぬこと 初耳ばかりの 歴史かな」
とはいうものの…。
今や、海も浦も海岸も、干拓などで陸地化・住宅化された、藤戸の市街地。
その街中を流れる倉敷川にかかる藤戸橋。
これ↓が想像絵図。
中央に盛綱が海を渡っている。
左手に平氏陣、右手に源氏陣。
中央下に藤戸寺が、左手下に経ヶ島が描かれている。
おぉ、佐々木盛綱は、橋上にて騎馬を駆けていた。
こんなかっこいい像が作られていた。
「盛綱さんはあのあたりから海に入り、騎馬で浅瀬をうまく渡って、突然、海から平家軍を急襲、先陣一番乗りを果たし、源氏が勝ったということですわ」
「あのあたり」=「乗り出し岩」とは、写真奥の白い建物あたりで、およそ500㍍先。
こんな史跡として残っていた。
また「ここ」とは、かつては先陣寺、今は西明庵の境内で、先陣庵として残っている。
一帯は高台で、その当時の平氏の陣地だったところ。
「この間はずっと海だったということですか…」
「そうでしょうな」
西明庵の住職は、あらためて感慨深げに眼下の街並みを望んでいた。
海域には点々と小島が浮いていたという。
海の浅いところを地元の漁師から聞き出した盛綱は、その男が他に漏らすことを恐れ、斬って捨てたという。
後に、この合戦の戦功にて、この一帯は盛綱の領地となった。
盛綱が斬った漁師の男を愛おしみ、菩提を弔うために建立したのが藤戸寺という。
供養塔は経ヶ島の史跡にも残っている。
かつては海に浮かぶ小島だった。
また藤戸の合戦の源平戦死者の供養塔が藤戸橋近くに。
源範頼VS平行盛(清盛甥)が戦ったこの海戦は、源氏が勝利、これによって平氏は四国・屋島へ逃れ、ますます劣勢になっていく。
そして2か月後、あの屋島の合戦において義経に大敗する。
因みに、盛綱が漁師を殺した哀話は後世、謡曲となっておおいに流布されたという。
うーん、知らなかった藤戸の合戦。
頼朝義経ばかりが注目され過ぎなのか。