山口の瑠璃光寺にて、雪舟像を拝顔したことから西国紀行が突如番外の文化人・学者群像編その2へ。
まずは、出雲大社近くにて躍る出雲阿国像。
阿国の男装してのかぶき踊りが京都で大受け!
有吉佐和子氏の「出雲の阿国」によれば、阿国の軽やかな足の動きに京の人々が魅了されたという。
またたくまに若い女性がみな夢中になって女歌舞伎が大流行。
あまりの騒ぎに風俗取り締まりで、「き、禁止じゃ!」。
すると今度は若い男たちがトリコに。
これも「き、禁止じゃ!」
そうすると次は、いい年の男たちがどっと歌舞伎へ、これが野郎歌舞伎となり、現在の歌舞伎の原点という。
よって今も歌舞伎は男が女役なのか。
おもろいね~。
歌舞伎は「傾き(かぶき)」、かぶき者とは「変わり者」の意。
それが今や、日本を代表する伝統芸能なんだから。
阿国さん、よかったね!
その2、連歌といえば、飯尾宗祇。
「新撰菟玖波集」の選者(あわてて教科書を開く汗)
出身地の滋賀県能登川町にて騎馬像に対面。
連歌は発展して江戸時代に俳句となって全盛に。
その4、となれば松尾芭蕉像。
「行く春や 鳥鳴き 魚の目に涙」を詠ったという「奥の細道」出発地の江戸・深川の隅田川のほとりの像。
高層ビル群を見守ってるがごとく。
そして草加市にも。
さらに「荒波や 佐渡によこたう 天の川」を詠んだ越後・出雲崎に立つ像。
「奥の細道」の旅で芭蕉に随従した河合曽良は我が信州・諏訪の出身。
草加では芭蕉と道路をはさんで向き合っている。
また信州諏訪の曽良墓所のある正願寺にも曽良の像が。
その5、ところで出雲崎といえば、良寛。
江戸時代禅僧の良寛は独自の生活歌(和歌)を詠ったとか。
出身地の出雲崎市には良寛記念館がある。
どうしてなのか、なぜか正面から撮っていない。
その6、同じく新潟にて。
とあるところで出会った竹内式部像。
名前を知っていたのでカメラにおさめた。
越後出身の国学者・尊王攘夷論者。
18世紀半ばというから幕末より100年前のこと。
式部は京都にて公家たちに尊王論を説いたとして八丈島に追放された。
式部の出生地は今の新潟市内に出生地の碑が立てられているという。
いやぁ、たけのうちしきぶ、なんも知らんなぁ。でも教科書に載ってるからなぁ。
で、まだまだ紹介したいところですが、西国レポートがいまだ半ば、よって今回は次のその7にておしまいにします。
ここまでお付き合いいただけた方、いつもながらありがとうございます。
トリをしめるのは、「日本のレオナルド・ダ・ビンチ」、平賀源内。
その肩書きはすごい。
地質学者、蘭学者、医者、浄瑠璃作家、発明家にして画家。
香川県さぬき市の出身。
ちょうど、高松市で源内展をやっていた。
さぬき市の生家が記念館として残り、銅像が立てられている。
かつてこのブログに源内について書いたことあり、以下その抜粋です。
●天才・平賀源内を世に送り出した人々
「日本で最初にエレキテル(電気)実験をした人、寒暖計や石綿を発明、チラッと見るだけで智恵の輪を軽く解いたそうな」
「薬草にめっぽうくわしく、鉱山開発も請け負う。日本の西洋画創始者であり、戯作文学も書くなど、ダ=ビンチも顔負けのマルチ人間だった…」
だが源内は、幼い頃から頭のいいことを鼻にかけたり、相手を小バカにしたり、「天狗小僧」などと呼ばれるなど、ナマイキな嫌われ者の一面もあったという。
そんな風変わりな性格の源内の才を寛容に受け入れ、かばったり励ましたり、ひきたててくれた人々が周囲にいた。
草花に人一倍興味を持つ源内を本草学者のもとに連れて行った父の茂左衛門。
源内の才能を見込んで高松の医師に預けた本草学の先生・三好喜右衛門。
そしてさらに、その医師・久保桑閑は源内の非凡さに驚嘆し、高松藩主・松平頼恭に推挙した。
その頼恭は源内の将来を高く買って、特に長崎留学を命じた。
源内は実に恵まれていたというべきか、いや、それほどまでの才能があったというべきか。
これら多くの人々の温かな眼差しと包容力、先見の明がなければ、鬼才・平賀源内はこの地上にキラリ誕生しなかったろう。
それにしても源内の才、凄し!