小岩嶽城の合戦
天文21(1552)年8月
武田軍vs古厩盛兼(別名仁科盛兼・小岩岳図書)
天文17(1548)年、塩尻峠の合戦(2018・10・27参照)にて信濃守護・小笠原長時に大勝した武田信玄は、その後筑摩・安曇平への侵攻を加速した。
2年後、長時方の支城・埴原城(松本市中山)などを攻め落とし、ついに長時を小笠原家百年の居城であった林城(松本市里山辺)↓から追い出したのである。
信玄はただちに深志城(現・松本城)を中南信濃支配の拠点として修築している。
林城を追われた長時は、平瀬城(松本市島内)に身を置き、捲土重来を期して野々宮の合戦(2018・12・28参照)で武田に挑んだ。
しかし善戦したものの中塔城(松本市梓川)に追いつめられ、その後むなしく越後へと落ちていった。
長時がいなくなった今、筑摩・安曇の国人領主たちはしだいに武田方に随従していったが、そんな中、武田の支配に服せず自らの領土支配を守ろうとするものがいた。
その一人、平瀬城主の平瀬七郎左衛門義兼は長時を庇護するなど、武田に反旗を翻していた。
天文20(1551)年、信玄は平瀬城攻撃を命令、激しい攻防戦の末、多勢の兵を擁した武田方が城を攻略、城主・義兼以下200余の城兵は全滅した。
もう一人が小岩嶽城(安曇野市穂高有明)に拠った古厩盛兼である。
平瀬城を落とした武田方はその勢いをもって安曇平を横切り、怒濤の如く小岩嶽へ押し寄せた。
「来た、来たぞ! 備えはよいか」
「おおぅ!」
盛兼の声に呼応して一斉に鬨の声をあげ、城兵達の士気は高かった。
小岩嶽城の背後は急峻な山岳、およそ130㍍の南北間は急崖と急流に守られている。
また正面となる東斜面には三段の郭と空堀を築き、防備に専念できる堅固な城に築城されていた。
城主・古厩義兼の兄の仁科盛国は、名門・仁科家の当主として北安曇一帯を支配、筑摩郡にもっとも近い地の豪族・古厩氏を盛兼に継がせたが、信玄の激しい侵攻に圧倒されていた。
しかし盛兼は徹底して反武田の気概に満ちていた。
小岩嶽城址には安曇平・松本平を一望できるほどの望楼風の展望台が作られている。
14㌔ほど先となる平瀬城から進軍して来る武田軍の動向をつぶさに捉えることが出来たに違いない。
「よいか、敵をよく引き付けよ、まだまだ射るでない!」
かくして小岩嶽城攻防戦の火蓋は切られた。
しかしさすがの武田軍も堅固な城郭と士気高い城兵の戦いぶりに攻めあぐんだ。
▼本郭一帯はよく保存されている
数日で攻撃を止め、府中(松本)に撤退した。
おそらく容易に攻め落とせないと見て、作戦を練り直したのであろう。
そして翌天文21(1552)年、再び押し寄せてきた。
この間、盛兼への調略の働きかけも不発に終わったのだろう。
信玄は綿密な攻城策を立て、およそ3000の兵をもって攻撃をかけ、熾烈な攻城戦は数日間展開された。
だがついに、武田方の春日源助(後の高坂弾正)の決死の斬り込みが功を奏し、武田軍が次々と城内に乱入して小岩嶽城は落城した。
史料「勝山記」によれば、
武田勢が「打取ル頚(くび)500余人、足弱(あしよわ=婦女子・老人)取ル事数ヲ知ラズ」とある。
籠城していた者は老若男女、多くは討ち取られ、また何人かは捕虜として甲斐に送られるという凄惨な結末となった。
なぜここまで徹底した抵抗せねばならなかったのか、自刃した盛兼の真意は不明である。
現在、城址一帯は公園化され、望楼の他に模擬の城門が復元されている。
広い本郭址には、多数の戦死者を慰霊する、
「小岩嶽落城戦没者慰霊碑」
と刻まれた石碑がひっそりと立ち、往時を偲ばせる。
余談ではあるが、信州の中信地区は、徹底的に信玄の侵攻を受け、信玄の領国として支配を受けた。
いわば、「やられた」立場の地域であるにもかかわらず、実に、おどろくほど、悔しいほど「信玄人気」は強い。
まぁ、かつて私もそうだったのだが…。
次回は横田河原の合戦。
紙面版です。