●信玄奇襲作戦にて凱歌 信州知られざる古戦場8 瀬沢の合戦 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

ちょっとばかし、西日本遠征の手を休め、我が信州の古戦場をばご紹介。

ぜひご一読のほどを。

 

瀬沢の合戦(長野県富士見町)

武田信玄VS信濃連合軍(諏訪頼重・小笠原長時・村上義清・木曽義康)

天文11(1542)年3月

 

「なにっ、信虎殿が追放されたと?」

天文10(1541)年、甲斐国主・武田信虎が突如駿河へ追放された。

嫡子・信玄(当時晴信)の重臣らと謀ってのクーデタといわれる事件である。

 

事件を耳にした諏訪頼重(諏訪・上原城主)は、甲斐国内の混乱を察して信濃の諸将に、「今こそ、甲斐へ攻め入る好機でござるぞ!」

と呼びかけ、侵攻を目論んだ。

これが瀬沢の合戦である。

 

古戦場は甲信の国境沿い、北側の信濃から南側の甲斐方面へ下る斜面一帯で、現在は国道20号線がS字カーブを描いて走り、道沿いに「瀬沢古戦場」の碑が立っている。

ここから立場川流域の人家や、田畑の向こうに甲斐の地がかなり先まで遠望できる。

天文11(1542)年2月、「信濃四大将」と称される面々はそれぞれ瀬沢一帯に陣を構え、出撃の足並みを揃えようとしていた。みな歴戦のつわものである。

対して信玄は22歳、甲斐国主となったばかりであった。

 

頼重らの動きを察知して武田軍も出陣準備をしたが劣勢だった。

駿河の今川に加勢を頼むべきという意見や、軍を二手に分け迎撃すべきという作戦も出された。

だがこれを信玄は退けた。

 

「それでは今後今川の下風に立たされる。また少ない我が軍を二手に分けるは弱体化の極み」と。

 

物見の知らせによれば信濃勢は、瀬沢の地にて数日間、陣揃えをしているという。

それを聞いた信玄は眼をキラリと光らせ、諸将に敢然とこう断じた。

 

「者ども、ここは信玄に任せよ。我に策あり」と。 

 

信濃四大将が瀬沢の地で陣揃え・休息していると聞いた信玄は、まず、間者たちを集め、

「武田方は甲府の城の堀を広げ、籠城するらしい」

というニセの情報を敵方に流すように指示、敵を油断させる策を取った。

 

そして自軍の諸将には、

時刻をうつさず、われいちましに、打立候へ(「甲陽軍鑑)」、

すなわち信濃勢が陣容を整えぬうちに、一気に一丸となって攻め立てよと命じた。

「われいちましに」とは我先にということか。

 

甲府から瀬沢までおよそ30㌔、武田軍は駆けに駆け、瀬沢をめざした。

諏訪頼重らは自軍の軍勢数を過信していたのかもしれない。

四大将が轡を並べて出馬、そのまま堂々と甲府へ押し出せば勝てるという余裕の作戦だったと思われる。

 

ところが早暁、武田軍が突如攻め立てきた。

あまりの急な速攻に信濃勢はあわて、またたくまに阿鼻叫喚の激戦が展開された。

作戦を立てて一気に攻めてきた武田勢が押し気味だった。

 

兵数に勝る信濃勢もよく戦い、激戦はおよそ6時間続いたという。

信濃勢は次第に北へ押され、ついに敗走した。

武田方が討ち取った首級は1600以上、勝鬨の声が谷間にこだました。

だが、武田の主たる将の飯富、甘利らが負傷するなど、死傷者は少なくなく、追撃するまでは出来なかった。

 

信玄が当主として初めて采配を振るったこの合戦の勝利は、まさに信玄の信濃侵攻の端緒となったのである。

 

だがこの合戦は「甲陽軍鑑」のみに記載があり、他の史料には見られず、信玄の初勝利を喧伝するための架空の話なのではと、信憑性に疑問が持たれていた。

 

ところが瀬沢の集落の西照寺境内に立つ笠塔婆の石塔に、合戦から3年後の日に戦死者の三回忌を行ったと思われることが刻まれているという。

また江戸時代作成の「諏訪藩主手元絵図」には、頼重・信玄の御陣場の場所が記されており、やはりかなりの合戦が瀬沢で行われたのではないかと推察されている。

次回は、小岩嶽城の合戦

 

◆紙面版です。

 

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