「信州 もののふ達の咆哮」 板垣信方 下の巻「上田原合戦、先陣にて突撃す!」 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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⇒板垣信方 下の巻

信玄の信濃侵攻の佐久・上田平方面においても、信方は常にその先頭に立った。

上田平では東北信の雄・葛尾城主の村上義清と、上田原の合戦で全面対決、合戦の火蓋が切られた。

天文17(1548)年春のことである。

 

上田原の古戦場は、上田市中心街からは南西に位置する。

西流する千曲川に南から浦野川・産川が合流して注ぐ平地一帯で、今は人家と田畑が広く点在する田園地帯をなし、ほぼ中央に上田古戦場公園がある。

 

また上田電鉄別所線の上田原駅周辺でもあり、石久摩神社には「上田原古戦場」碑が立てられている。

古戦場の西に位置する千曲川岸壁の岩山・岩鼻の高台に登ると、眼下には、まさに「高見の見物」のごとく、古戦場を一望できる。

 

写真右手の倉升山が信玄の本陣が置かれた地。

左手に千曲川が流れ、すぐ手前の産川周辺に村上義清は本陣を構えた。

 

古戦場ルポはこのくらいにしておこう。

合戦は激烈を極めたのだ。

 

上田原の東西に陣構えした両軍の兵数はほぼ互角の七千、作戦も駆け引きもない力の限りを尽くす全面衝突の戦いであった

最前線に布陣した信方隊が鯨波の声をあげて突撃を開始、その勢いはすさまじく、村上勢の前面を突破、敗走する敵をさらに追った。

 

ところが大勝した安堵感からか、味方の軍勢と離れた状態のままで悠々と信方は首実検を行ったというのだ。

そこを村上勢に反撃急襲され、信方は乱戦の中、討ち死にした。

信方ともあろう歴戦の将が油断したのであろうか、詳細は定かでない。

 

「殿ッ、板垣様、板垣様が討ち死!」

「なに、信方が!」
さらに信方隊を援護するため加勢に向かった甘利虎泰も、才間河内守も討たれ、村上勢の猛反撃に信玄軍は逆に敗走、大敗を喫した。

幸い村上方も多くの将兵を失ったためか、猛追はなかった。

 

「甲陽軍鑑」によれば、阿鼻叫喚の白兵戦中、総大将・義清自らが信玄本陣に斬りこみ、義清・信玄は互いに馬上でわたり合ったといい、「両方(信玄と義清)、切ッ先ヨリ炎(火花)ヲ出シテ斬リ戦ウ」と記している。

信玄は数ヶ所に手傷を負った。

 

これが信玄の長い戦歴で、数少ない敗戦として知られる上田原の合戦である。

 

信方の墓所は古戦場写真の、ほぼ中央の田園に板垣神社として祀られ、2つの鳥居が配されている。

墓塔には信方が好んだと伝えられる煙草がよく供えられるという。

 

信方の他、一帯には村上方の武将の墓塔もあちこちに祀られ、合戦の熾烈さを今に伝えている。

 

この上田原の合戦では敗北した信玄だったが、以後気落ちすることなく、それまで信方が地道に築き上げていた信州侵攻の布石を着実に進めた。

 

5年後の天文22(1553)年、ついに村上義清の葛尾城を攻略、義清を北へ追って、東信一帯をほぼ支配下にする。

信方の生涯はまさに、信玄の信濃支配の、身を挺しての礎となったのである。 

 

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