今日師走15日は、昨夜14日吉良邸に討ち入った赤穂四十七士が本懐を遂げて凱旋、高輪泉岳寺に胸張って歩んだ日。
また、きのうは亡き妻の命日だった………。
私はいつまで生きながらえるのか、なんて空を見上げつつ………。
………「ええっ! 赤穂四十七士に信州出身がいる!?」
と、知った時はおどろき、かつなんか嬉しかったことを思い出す。
そしてちょうど5年前の師走。
いさんで「信州往来もののふ列伝 巻44 赤埴源蔵」を書いた。
ぜひぜひご一読のほどを、ぜひに。
赤埴源蔵(あかばねげんぞう 1669~1703)
江戸時代の武士。赤穂四十七士の一人。
源蔵は通称。正式には重賢。
講談などでは「赤垣(あかがき)源蔵」として登場する。
父の仕えた飯田藩・脇坂家が寛文12(1672)年、播州・龍野藩へ転封。
源蔵はその地から隣藩の赤穂藩・赤埴家の養嗣子にいき浅野家に仕えた。
吉良邸討ち入りで本懐を遂げ切腹。
享年35。
今から310年前、元禄15(1702)年12月14日深更、赤穂四十七士は江戸本所松阪町の吉良邸を急襲。
払暁、仇の吉良上野介の首級を挙げ、みごと本懐を遂げた。
この赤穂浪士の物語に魅了された私は、中高生の頃四十七士の名を全て暗記したほどだった。後に、
「その一人・赤埴源蔵が信州・飯田の出身!」
と知ったとき、実に嬉しかったことを思いだす。
源蔵は講談「徳利の別れ」の話でよく知られる。
子供心に胸をうたれたのはこんな物語だった。
………「義姉上、源蔵はしばらく旅に出ますゆえ、今日は兄上と一献交わしたく参りました。御在宅でしょうか」
酒飲みの源蔵を嫌う兄は居留守をつかう。
すると源蔵は兄の羽織を貸してほしいと頼み兄の部屋へ。
羽織を床の間にかかげ、その前に正座して頭をさげ何やらブツブツ言っている。
そして持参した徳利酒を一人で飲みながら羽織に向かって何か話しかけてはまた頭をさげている。
襖をそっと開けてのぞく兄。
「何をしている、源蔵は?」
しばらくすると、
「義姉上、おじゃましました。兄上によろしゅう」
と羽織を返し去っていった。
翌朝、江戸市中は突然の赤穂浪士吉良討ち入りで大騒ぎ。
「まさかっ!」
と家を飛び出して大通りへ走る兄。
すると四十七士が雪道を整然と高輪泉岳寺へと歩いていくではないか。
あぁ、その中に弟・源蔵のりりしい姿が。
「源蔵! 源蔵! 許してくれぇ!」
飯田市大横町あたりは殿町ともいい、城下町の雰囲気をいまだ漂わせる。
その街角に「赤埴源蔵誕生地」の立札があった。
飯田城址から北西へ1㌔ほどの所である。
ここに源蔵の父・塩山十左衛門の居宅があった。
源蔵4歳のとき、脇坂家が転封で遠く龍野藩へ。
塩山家もそれに従った。
その後源蔵は隣藩の浅野家家臣・馬廻200石赤埴家の養嗣子となったのである。
主君・浅野内匠頭長矩が江戸城殿中で刃傷事件を起こした時、源蔵は江戸詰めであった。
主君の心労を身近で感じていたのだろう。
「わし一人でも殿の仇を討つ!」
というほどの激派だったという。
討ち入り当日、源蔵は裏門隊に属し屋敷内への斬り込み役を果たした。
事件後は細川邸に大石内蔵助はじめ17人とともにお預け。
翌年2月4日切腹斬首。介錯人・中村角太夫、戒名・刃廣忠劍信士。
伝えられる源蔵の人間像は「徳利の別れ」の物語とはかなり違う。
寡黙で酒もあまり飲めなく兄はいなかった。
遺言は「弟・本間安兵衛に兄は快然として死についたとお伝えくだされ」
兵庫県赤穂城址を訪ねた。
橋を渡り大手門をくぐると大石内蔵助屋敷跡で、今は大石神社となっている。
その境内の義士木像奉安殿、当代一流の彫刻家が四十七士を一人一体ずつ彫った木像がズラリ、これには圧倒された。
その中、我が赤埴源蔵は、赤堀信平氏作の雨合羽に饅頭笠を左手に持つ立像に表されていた。
物語の兄の家を辞去するときの姿という。
「源蔵っ!」と叫ぶ兄の悲痛な声が聞こえてきそうな…。
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赤埴源蔵も吉良義周も 信州ゆかりのもののふ五十人がズラリ!
「信州往来もののふ列伝」(しなのき書房)
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