●山村良勝のあるじ・木曽義昌とは | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

木曽代官となった山村良勝のあるじ木曽義昌
武田家と結び、妻は武田勝頼が妹で、武田家御親戚衆となった。

しかし木曽の南から押してくる信長勢力の最前線。
義昌の難しい立場は、結局、人質に差し出していた自身の母や子を犠牲にして、武田を見限り信長と通じた

勝頼が斬刑に処したのは、義昌母70歳、子・小太郎13歳、娘17歳。
勝頼にとって小太郎は甥、娘は姪となるのだが。
3人は甲斐・新府城近くの光明寺に眠っている。
 

この義昌の決断で信長は武田攻めを決する。

ところが信長の急死。
よって徳川の傘下に。
秀吉の台頭。
よって秀吉のもとへ。

よって小牧長久手の戦いで、家康が木曽を攻めてきた。
それが妻籠城の戦いに

だが、秀吉の命で再び徳川の傘下に。
「妻籠の怨みじゃ、遠く下総にいかせろ!」
と、家康が思ったかどうか。

家康の関東国替えで、木曽家は故郷を離れて、遠く下総・阿知戸の地へ移された。
かつて「信州往来もののふ列伝 巻47」で、木曽義昌伝を。
ご一読のほどを。
               
木曽義昌(きそよしまさ 15401595) 戦国~安土桃山時代の武将・大名。
木曽義仲の子孫を称する木曽家第19代当主。
弘治元(1555)年、信玄の娘・真理姫を妻室に迎え武田親族衆に加えられる。
だが信玄死後、劣勢の武田を見限って信長と通ずる。
信長死後は家康、秀吉、そして再び家康に臣従。
家康の関東国替えにともない、下総国阿知戸(網戸)1万石藩主へ移封となる。
5年後同地にて逝去。享年56



太平洋九十九里浜の潮の香りが漂う千葉県旭市の「木曽義昌公史跡公園」を訪ねたのは数年前の早春のことだった。

その日、公園には正装した30人ほどの人が集まっていた。

「信州からとは、それはまたちょうどいい時に参られましたなぁ。今日は義昌公の供養祭なんですよ」

と、義昌の菩提寺・東漸寺住職。
まったくの偶然である。
公園内の義昌公座像・墓塔前で法要が行われ、一同東漸寺へ向かう。
境内には義昌公の供養塔が立っていた。

 

 

 

木曽義仲が祖という名門・木曽家は天正18(1590)年、本拠地木曽の地を離れ、現在の旭市へ国替えとなった。
木曽家は代々木曽谷一帯を支配する独立性を保った領主だったが、信玄の勢力に圧迫され、義昌が妻室に信玄の娘・真理姫を娶ることで、父・義康の代に武田親族衆となって服属させられた。

だが信玄死後、勝頼の代となって、新府城の築城などで過重な負担を強いられた時、義昌は一大決心をした。
「やむなし、信長公に賭けよう。木曽家存続のためじゃ」と。
勝頼は親族たる義昌の寝返りに烈火のごとく激怒、木曽へ押し寄せてきた。

哀れ、その前に人質として甲斐の新府城に送られていた義昌の母と子息千太郎、息女岩姫は斬首となった。
一大覚悟を決めていた義昌は、勇猛を誇る武田軍を地の利を知り尽くした木曽の鳥居峠におびき寄せた。
そしてみごとこれをうち破ったのである。

「なんと、義昌が勝ったか! よし、即刻武田攻めじゃ」
信長は即座に武田総攻めを決断、そしてわずか数ケ月後、武田滅亡。

義昌の決断と鳥居峠の勝利は武田滅亡の契機となったのである。
義昌と諏訪・法華寺で会見した信長は、

「義昌殿、このたびの働き、実におみごと!」
と踊らんばかりに義昌を喜び迎え、木曽郡に加え安曇・筑摩郡を加増した。

信長はよほどうれしかったのだろう。
義昌が信長の前を退出していく際、
「御縁マデ御送リナサレ、(義昌は)冥加ノ至リナリ
と「信長公記」は記している。
 
知行地は倍以上、信長の傘下に入った義昌の決断は的確だったかに思われた。
ところが

「なにっ、信長様が討たれたと!」
信長急死で信州はいっきに無主動乱の巷と化した。
なんと安曇・筑摩郡は旧主・小笠原氏の勢力が復活・侵攻して2郡を奪われてしまった。
「このままでは木曽の地も危ない
と、義昌は急遽家康と結んだ。

さらに天正12(1584)年の小牧長久手の合戦前には情勢を見て家康の敵・秀吉の傘下に入った。


怒った徳川は木曽へ攻めてきたが、家康と秀吉が和睦したため事なきを得た。
ところが秀吉は義昌に、
「家康の配下となるよう」と。
仕方なし、義昌は従わざるを得ない。
 
天正18(1590)年、家康の関東国替えでは「木曽殿、関東へ」との家康の命。

義昌は先祖代々の地を後にせざるを得なかった。

山国から遠い下総の海辺の国へ。
家康の嫌がらせだったのか、急な措置だったのか、義昌が移封先の網戸を知ったのは移動する旅の途中だったともいう。

それにしてもいつの時代も同じとはいえ、大々名(大企業)の都合で中小大名(中小企業)は翻弄される。

この時信州から小笠原、諏訪、保科氏などが次々と先祖伝来の地・故郷ともいうべき地から離され関東に国替えされている。

だが義昌は新地で、近世大名としての治政に力を入れた。
「旭市では灌漑事業や街づくりなどに尽力した義昌公は崇められていましてね。毎年七夕祭りでは『木曽義昌公武者行列』が行われています」
東漸寺住職

義昌の心機一転した網戸での治政への意気ごみが今も称えられているという。

  
 
義昌が武田軍を破ってその名を高め、信長を狂喜させた古戦場の鳥居峠を訪ねた。

義昌の祖父となる木曽義元が峠の頂に御岳山を遙拝する神社の鳥居を作ったことから峠の名が付けられという。
今は古戦場というより、江戸時代の中山道の奈良井宿・薮原宿間の往還路として、多くの旅人が汗を流した石畳の道が往時をしのばせてくれる。

山中の道筋に残る「葬沢(ほうむりざわ)」の地名は、合戦の際、義昌に大敗した武田方の戦死者で沢が埋まったことから名付けられたという。


峠の頂には義昌の戦勝碑も立っており、この鳥居峠には「もののふ・義昌」の名もまた永遠に刻まれるといってよいだろう。
 

鳥居峠から南へ20㌔ほどの現在の木曽町福島市街に、阿知戸(網戸)へ移封される以前の木曽氏代々の居館が置かれていた。

その跡は今、木曽代官だった山村良勝が創建した大通寺となっていて、境内に義昌妻室だった真理姫の供養塔が立っている。

  
信玄の三女で勝頼の妹だった真理姫は、甲斐から木曽、そして網戸へと義昌に従った流転の人生を歩んだ。
義昌死後は木曽へ戻り98歳で死去するまで暮らしたという。

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