覚明と義仲が接したのはわずか3年ほど。
まさに義仲の絶頂期。
さっと来てさっと去って行った。
その生涯の全体像はほとんどが謎のような。
5/1付の「信州往来もののふ列伝」です。
またぜひご一読のほどを。
信州往来もののふ列伝 巻74 覚明
覚 明(かくめい・かくみょう 1129?~1219?)
平安末期から鎌倉前期の僧。
木曽義仲の平家打倒の挙兵当時から軍師・右筆として仕える。
木曽願文・山門牒状をしたため、義仲の上洛を有利に導き平家を西に追う。
東信の豪族・海野氏の出身とも、京の中下級貴族の出ともいわれるが定かでない。
義仲死後は親鸞に帰依して西仏と名乗ったという。
長野市篠ノ井塩崎の康楽寺を訪ねると壮大な本堂に圧倒される。
開基は13世紀初頭、木曽大夫房覚明西仏坊によってなされたという。
境内に覚明のゆったりとした表情の銅像が立っていた。
覚明と義仲が出会ったのは治承4(1180)年の挙兵前後と思われる。
平氏に楯突いて都から逃れてきた覚明を、中央の情勢に精通した博学の僧と見た義仲は「この僧は頼れる」と思い、
また覚明は平家打倒に燃える若き義仲を見つめ、
「よし、この人なら組める」と、互いに意気投合したのだろう。
義仲は覚明を軍師・右筆として別格の家臣にしたと考えられる。
その頃、都の動静に詳しかった養父の軍師格だった中原兼遠が身を引いており、義仲は上洛を目指すにあたって深く相談できる相手を必要としていた。
寿永2(1183)年の倶利伽羅峠の決戦直前、覚明はその才を発揮、いわゆる「木曽願文」をしたため義仲全軍を奮起させた。
堂々たる義仲騎馬像が立つ峠のふもとの埴生八幡宮(富山県小矢部市)。
ここに願文は奉納され、義仲軍の気勢を高めたのである。
願文に曰く。
「大軍の平家に向かう我が軍は『蟷螂(とうろう)が斧を怒らいて龍車に向かうが如し(かまきりが斧を怒らせて戦車に立ち向かうようなもの)』
だがこれは国の為、君の為であって私の為にあらず。
『この志の至り神感天に在り(私の志を感じてくださるのは天におわす神です)』」
という格調高いくだりは、まさに覚明ならばこその能文であった。
更に覚明は義仲軍が京に迫ったところで、比叡山延暦寺にいきなり戦いを挑まず、まず牒状を書き送った。
そしておそらく自らも出向いたのだろう。
比叡山が平氏・義仲のいずれに味方するか、まさに乾坤一擲、覚明に全てがかかったのである。
牒状に曰く。
「そもそも天台の衆徒は平氏に同心か、源氏に依りきか。
もしかの悪徒(平氏)を助けらるべくは、(我が軍は)衆徒に向かつて合戦すべし。
もし合戦をいたさば、叡岳の滅亡踝(くびす)をめぐらすべし(叡山はまたたく間に滅びるだろう)」
など、朗々たる覚明の才筆・弁舌に説かれた比叡山延暦寺は、ついに義仲に味方することを決断する。
かくして平氏は都をあとにして西へ逃れ、義仲は上洛を果たすのである。
叡山を籠絡し、都を制圧した義仲軍にとって覚明の功績は絶大といわねばならない。
ところがそれから7ヶ月後、義仲は鎌倉方に敗れ戦死する。
覚明はどうしたのか?
覚明は義仲の死以前に忽然と姿を消している。
その理由は皆目わからない。
義仲の遺児をともない瀬戸内海にのがれたという伝承もあるが、文筆仏門に専念したともいわれる。
文才に秀でていた覚明は、「和漢朗詠集私注」「仏法伝来次第」などを著していたが、義仲死後は「曽我物語」「平家物語」などの製作に関わったともいう。
また親鸞に帰依して信州に康楽寺の前身・報恩庵を草創したともいう。
覚明の墓所は康楽寺から西へ数㌔行った小高い所に、杉木立を背にして善光寺平を一望する地にある。
石碑には「覚明西仏終焉の地」と刻まれていた。
墓所の由来書は延応元(1239)年97歳で往生という。
覚明の故郷はやはり信濃国だったのかもしれない。
次の巻は戸田康長。
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坂上田村麻呂 平 将門 岡田親義 手塚光盛 根井行親 今井兼平
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北条国時 北条時行 宗良親王
小笠原長時 村上義清 武田信繁 山本勘助 馬場信春 高坂昌信
武田信玄 上杉謙信
木曽義昌 仁科盛信 依田信蕃 織田信長 明智光秀 森 長可
上杉景勝 佐々成政
石川数正 仙石秀久 真田昌幸 真田信繁 真田信之 小笠原秀政
福島正則 花井吉成
松平忠輝 保科正之 赤埴源蔵 吉良義周 太宰春台
武田耕雲斎 佐久間象山 中岡慎太郎 赤松小三郎 堀 直虎 相良総三
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