●果たして佐久間象山と並ぶ信州の鬼才だったか 太宰春台一代記 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

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「…♫春台太宰先生も 象山佐久間先生も みなこの国の人にして♫…」
信州人なら幼いころからよく歌った長野県歌「信濃の国」の歌詞。
ここで佐久間象山と並び称されている太宰春台は、象山より100年ほど前の学者。
信州・飯田の出身。

象山もすごい! 松陰もすごい!
そして太宰春台もまた!
 


◆太宰春台(だざいしゅんだい 16801747

江戸中期の儒学者・経世家。
春台が9歳の頃、飯田藩主・堀親常に仕えていた父が浪人し江戸へ。
春台も江戸へ出て学問に励む。
但馬・出石藩に仕官するも辞して遊学。
古学・経世学などに造詣を深める。
その後江戸で荻生徂徠に師事して頭角をあらわし、私塾・紫芝園を開設、多くの門人を育てる。
著書の「経済録」は特に名高い。享年68

         ◆

「♪旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も 春台太宰先生も 象山佐久間先生も 皆この国の人にして 文武の誉れ類なく♪」

太宰春台は我が長野県歌「信濃の国」の歌詞で、なんと真田信繁(幸村)や小林一茶、あの雷電為右衛門をも差し置いて「国の誉れ」と称えられている人物である。

しかし残念なことに県民になじみがない。
県南の飯田出身で、かつ飯田での在住はわずか9年間だったというからしかたないことかもしれない。

 

ところが長野県出身者で日本史教科書に最も詳しく記載され、さらに大学入試などに頻出する人物は誰かとなれば、なんと太宰春台である。

教科書には、

太宰春台は経世論を発展させ武士も商業を行い、専売制度によって利益をあげるべきだと主張した」
とある。
鎖国下の江戸中期において100年後の我が国の資本主義化を見抜いていた先見性のある学者だった。


経世済民(世を治めて民を救う)」という中国の古典から「経済」という語を最初に使ったのは春台という。

その主張をいくつか列挙すると、
経済こそが政治の中の基本的な要素である。
武士は農業の収益を得るだけでなく、自ら特産物を生産販売すべきだ。
「百工(技術者)ハ国ノ宝ナリ」。
経済の勉学に通じた者を「卑賤ヨリ挙ゲテ」即ち身分を問わず政治に参加させるべき、など。

これらは江戸後期の時代にになって、各地各藩であまねく実践されるのだが当時としてはきわめて先鋭的な学説であった。

 

春台の生家跡は、飯田駅前からほぼ南へ直線に延びる中央通りに面した所にある。
「太宰松」と呼ばれる大きな松の木と石碑が立つ広場は、飯田市街地の心緩む空間となっていて、県内で唯一の春台ゆかりの史跡である。
 
 

春台の父が藩主・堀氏に仕えていたころの飯田城は石垣をわずかに残す程度だが、二の丸にあった二の門(八間門)は、明治になって郊外の松尾地区に移築され壮大な往時の姿をほぼ残している。

江戸前期に建造されたといい、入母屋造、2階建、間口3間、左右4間ずつという長屋門は石落としを備え、まさに一見に値する建造物である。
 

 

春台の父・太宰言辰は飯田藩に武道の師範として仕えていた。
しかし嫡子・春台は学問に向いていて暗記力と観察力はずば抜けていたという。
日本六十余州の大名系図・領地・禄高、朝廷の官職などは一つの誤りも無く暗記、また友人から無理に頼んで借り受けた「大日本史」は、わずか数日で全て暗記したというから恐れ入る。

その学才は飯田を離れて後、諸国を歴訪してますます磨きがかかった。
そして当代一流の儒学者・荻生徂徠の門人となってめきめき頭角をあらわし筆頭格の弟子となった。
30代半ばで紫芝園と名付けた塾を江戸・小石川で開き、多くの門人を育てた。
また著作は「経済録」「論語古訓」「産語」など50冊以上に及んでいる。

中でも「経済録」は春台の社会経済政策論の集大成で、荻生徂徠の「政談」と並び称せられる名著といわれ、必ず教科書に代表作として記されている。
かくして春台は出藍の誉れとさえ称えられた。


春台は厳格にして礼節を重んじ傲岸不屈の精神を持った学者で、師たる徂徠とも遠慮することなく白熱の議論を堂々と交わしたという。
またある時、春台は弟子とはいえ老中格の大名に対して、玄関先まで師を送迎しなかったことをきつく咎め、「わしは聖人の礼節を説きに来ているのですぞ!」
と一喝したという。

また武士も民衆もこぞって絶賛した赤穂義士を、ひとり春台はきびしく批判。
「浅野公断罪を決したのは幕府。仇は吉良でなく幕府に向けるべきで、吉良を討ったのは浪士らが名利を得んとしたからではないか」と。
これには世間も開いた口がふさがらなかった。

かくのごとく決して世に媚びない春台は「学者たちが鬼神のごとく恐れる学者」といわれた。

まるで学問一徹のごとき春台だが意外にも、詩文・文芸に優れ、音楽では琴曲に精通していたというから驚く。特に横笛は得意で自ら竹で笛を作るほどの名人だったという。

春台は飯田を離れて以来、ついに信州の地を踏むことはなかった。
だが著書などには「信陽(信州)春台」と記名し、自分の出身・故郷は信州と思っていたようである。

春台は東京・台東区谷中の古刹・天眼寺に父母と並んで眠っている。
 
 

葬儀の会葬者は門弟ら300人以上に上ったという。
また春台の遺言によって葬列に槍持ちを参列させ、棺中には木剣を納めたという。

学者なれど、もののふの気概を最期までみなぎらせていた春台であった。

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