●敗れたりといえども信州・坂城町の誇り 村上義清一代記(上) | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

猛将・村上義清の故郷は、東信濃と北信濃の中間に位置する坂城町
町の南に清流・千曲川が流れる。
義清の居城・葛尾城本丸から街並みを俯瞰しようとクルマを走らせたが、雨が急に激しくなって断念。
今回はゆっくり城下町を堪能。
特に名物「おしぼりうどん」は、辛味のきいたネズミ大根を使ってなかなかの美味でした。
 
◆村上義清(むらかみよしきよ 1501~1573)

戦国時代、東北信濃を支配した武将。
葛尾城(埴科郡坂城町)城主。
信玄の信濃侵攻を2度撃退するなど勇猛を誇った。
しかしその後信玄に圧倒され、謙信を頼り越後へ逃れる。
激戦の第四次川中島の合戦では謙信軍の先鋒を担って戦うも、ついに故郷・葛尾城に戻ることなく越後にて死去。享年73歳。

天文17(1548)の義清と信玄の一大会戦・上田原の合戦は、大将・義清を中心に村上軍はよく奮戦し勝利した。

阿鼻叫喚の白兵戦の中、義清自ら信玄本陣に斬りこんだというのだからすさまじい。

義清ハ晴信公ト互イニ馬ノ上ニテワタリアイ、両方切ッ先ヨリ火炎(火花)ヲ出シ斬リ戦ウ(甲陽軍鑑)」。
その結果、信玄に手傷数カ所負わせ、宿将・板垣信方・甘利虎泰らを討ち取るなど、
信玄に真っ向勝負しての大勝利だった。

 
  

上田原の古戦場(上田市上田原)は、千曲川に浦野川が注ぐ一帯の平地で、今は市街地と田畑が混在している。

上田原の西、岩鼻の岩壁高台に登ると古戦場および上田盆地、遠く浅間山までが一望できる。

ここは写真をご覧戴きたい。
 
信玄はおよそ七千の兵を率いて上田原の東南、写真右手奥の倉升山に本陣を置いた。

いささか分かりにくいが写真左奥から手前に流れるのが千曲川、中央ほぼ左から手前に国道18号バイパスが走る。

眼下の右から左に浦野川が流れ千曲川に合流する。

村上軍約七千は、浦野川の手前から右に広がる一帯に集結、信玄軍と相対した。
兵馬の数はほぼ互角、作戦も駆け引きもない力の限りを尽くすガチンコ勝負の熾烈をきわめた合戦を義清は制した。

武田方の戦死者およそ1200、負傷者数知れず。

 

しかし勝ったとはいえ、村上方の痛手も大きく、屋代源吾、雨宮刑部、小島権兵衛などの有力な家臣を失い、再攻撃できる余力はなかった。

信玄はといえば大敗の心痛からか悔しさからか、しばし上田原にとどまっていたという。

上田原の古戦場は、負けた信玄方の猛将・板垣信方の墓・板垣神社がよく紹介されるが、散策すると義清方で戦死した屋代、雨宮、小島らの武将たちの墓塔などがあちこちに点在している。

  
 
上田原勝利の勢いで義清は、その後府中松本の小笠原長時らと諏訪まで攻め入るなど、信玄勢力に攻勢をかけた。

しかし信玄はしぶとかった。

なんと5ヶ月後には戦力を復活、甲府を出馬。奸計をもって塩尻峠の合戦で義清と同心していた小笠原長時を撃破。
府中松本一帯をほぼ手中におさめてしまう。

そして2年後の天文19(1551)年、またも東信濃へ進攻し、村上方属城の戸石城(上田市上野)に攻め寄せてきた。

ところが信玄は守りの固い城に苦戦、自ら城の際まで来て率先指揮を執ったという。

そこに北信濃に出陣していた義清がすばやく取って返し、救援に駆けつけた。

「背腹を突かれてはたまらん!」

と信玄はあわてて撤退、義清はこれを激しく追撃した。

この戦で信玄方宿将・横田備中はじめ千余人を討ち取り、またも義清は信玄に大勝した。

これが世にいう「戸石崩れ」と呼ばれる合戦である。

  
戸石城を東側から遠望するとまさに「砥石」を横から見たような台形の山城で、山腹は切り立ちふもとを流れる神川は深い堀をなして、素人目にも難攻不落、かなりの大軍でも落とすに容易でないと分かる。

信玄がなぜ正面からを力攻めしたのか不思議くらいである。

義清との2度の敗戦に懲りたのか、信玄は戸石城攻略を兵馬の力だけでなく、粘り強い調略による手も考えたのだろう。

同じ東信濃の信玄方の武将・真田幸隆に攻略策を命じた。

幸隆はこれに応え、なんと翌年戸石城を落とすのである。
(下に続く)

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