◆熊谷直実余話・六題◆
①「信州往来もののふ列伝 熊谷直実」は、直実・敦盛の書きたいことが多くまとめるに四苦八苦。
須磨寺・須磨公園に行かなかった。
高野山でも二人の墓には詣でなかった。悔いること多し。
②「合戦で人を討ち手柄をたて出世する」
もののふ・武人として当然の道といえども、ふと立ち止まればこれほどむなしいことはない。
古今東西、おそらく同じだろう。
直実のみならず、佐々木高綱も那須与一も源平争乱の中で仏門に入っている。
彼らは、悔いた心情を、「死んだ者の供養として人を救う・助ける」道を選んだというべきか。
③熊谷直実の討った平敦盛は清盛の弟の経盛の末子で16歳。
容顔は美麗、しかも笛の名手だった。
直実は討った敦盛の腰に笛がさしてあったのを見つけ、
「坂東武者数多あれど、戦陣に笛を持つ者風雅な心得の者は無し。惜しい公達を討ってしまった」
と嘆いたという。
敦盛のため直実は手厚く七回忌法要を高野山で催し、その後仏門に入っている。
④後世二人の話は能「敦盛」、幸若舞「敦盛」、謡曲「敦盛」などとなって流布、織田信長が桶狭間合戦直前に舞ったのは幸若舞の「敦盛」だったという。
⑤JR熊谷駅前の直実の騎馬像。
背景をあまりに無粋に撮ってしまったが、騎馬像の写真をもとに本校卒業生の山田さんが上手に絵を描いてくれた。
熊谷氏も平安中期から現在の熊谷市周辺を支配する有力な坂東武者ではあった。
直実は当初平氏側につき、旗上げした頼朝に敵対したが、後に臣従して頼朝の下で華々しく活躍する。
写真は熊谷市内の蓮生山熊谷寺(ゆうこくじ)。
この地に居館があった。
境内には直実夫妻・嫡子小次郎直家の墓が。
直実の墓所は京都・光明寺、高野山などにもあるという。