●仁科一族の最後の抵抗 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

仁科氏の勢力範囲を信州・北安曇一帯と記してきたが、仁科氏が武田氏に差し出した起請文の史料などには、仁科氏配下の一族郎党の、堀金、古厩、渋田見、穂高、等々力、野口、沢渡氏などの名が記されているという。


堀金・古厩・穂高氏などの土豪の名は、現在の安曇野市、かつて南安曇郡内に地名として残っている。


つまり仁科氏の勢力は、現在の松本市近辺まで迫っていたわけで信玄としても決して看過できない、油断できない豪族だった。


よって実質本家の仁科氏を滅ぼしたとしても、そのままには出来ず、信玄は実子の五郎晴清に仁科家の名跡を継がせた。



熱く散って逝ったもののふ達へのフォト・レクイエム 名前も仁科氏伝来の「盛」を付けて仁科盛信としたのである。


しかし滅ぼしたとはいえ、安曇平の仁科一派を全て臣従させるのは難しかった。


かなりの抵抗を示す頑強な土豪がいた。



写真は安曇野市穂高に西山に残る小岩岳城址につくられた城門。


信玄の安曇平侵攻に最後まで抵抗した古厩氏はこの小岩岳城に拠って戦った。
熱く散って逝ったもののふ達へのフォト・レクイエム

しかし天文21(1552)年8月、武田方についに落とされ、城主の古厩盛兼(小岩岳図書)は自刃、五百人以上の城兵が戦死した。



城跡には戦死者五百人の供養塔も立てられている(写真)。






それにしても戦国時代の熾烈な抗争・弱肉強食の様相はすざましい!