以前に東京メトロの東大前駅で刃物を振り回して通行人に傷害を負わした事件で、犯人は自分が教育虐待を受けて不登校になったので、社会に対する恨みを晴らす為に犯行に及んだと供述し話題になった。恨みは教育虐待をした親に対して持つのが当然なのに、そんな教育虐待を起こさせる社会が悪いと逆恨みのような理論を展開していた。教育虐待の同じような例が多々ある。滋賀県の看護学生が、医学部に入学させたいと教育虐待を行っていた母親を殺害した例がある。また、佐賀県の青年は父親の暴力や教育虐待から、両親を殺害した。

 

 こんな悲惨な事件になるのは稀なケースであろうが、同じように教育虐待と言われるような有形無形の圧力を親から掛けられて、精神を病んでしまった青少年は想像以上にいるのではなかろうか。最近は、盛んに教育虐待という言葉が使われるようになったが、以前は教育熱心な親とか、教育ママと呼ばれていた。子どもの幸福を強く願うあまりに、ついつい子どもに対して強い期待を持ってしまい、学業成績や進路に対してあまりにも口出しをする親が増えてしまったように感じる。教育に関する行き過ぎた介入・干渉・制御は教育虐待だ。

 

 教育虐待が盛んに行われているのは、日本だけではない。お隣の韓国や中国でも教育虐待と言われるような過度な家庭教育が実施されている。学歴こそがその後の人生を決定させてしまうような学歴偏重社会においては、教育虐待が起きやすいのかもしれない。日本においても、受けた教育の程度により人生が決定されてしまい、負け組と勝ち組に分けられてしまうような社会だからこそ、教育虐待は起きてしまうのかもしれない。ネット上でも、ある程度の教育熱心な親による強い指導は、子どもに必要だとする意見も少なくない。

 

 ある程度の教育虐待は、子どもの成長には必要なのであろうか。教育熱心な親のほうが子どもは高学歴になるし、いい学校に行けて高収入になれるから、無放任の親よりは幸福になれると思う人が多いのかもしれない。学習塾に行かせられたり家庭教師を与えられたりしたほうが、やがて幸せな人生を送れると思っている親が多いことだろう。こういう親は、自分が教育虐待をしているという自覚はない。教育格差における負け組にならないように、教育成果を上げるために必死になっている。子どもの教育は、親の責任だと思っているからだ。

 

 緩やかな教育虐待、ある程度の親からの厳しい指示や制限は許されるのか、という問いにはこう答えたい。子どもが危険な目に遭うのを防ぐため、または法を犯す怖れがあるとか、周りの人々を傷つける危険が高い場合は、厳しく指導すべきである。それ以外のケースでは、なるべく指示やコントロールは避けたいものだ。ましてや、子どもの進学・進路については、口出しをすべきではない。子どもがどんな進路を選択しようとも、親はその選択を尊重する態度が必要だ。子どもがどんな結果を得ようとも、親はそれを受け入れなくてはならない。

 

 そんな放任主義のようなことをすれば、子どもは楽な道を歩こうとするし、勉強もせずに堕落してしまうだろうと、心配する親がいるのも承知している。それも、その子にとっては大切な学びと経験であるから、親はそっと見守るべきである。ただし、親は子どもの見本になるような後ろ姿を見せることが肝要だ。読書しなさいと叱るのではなく、親が楽しんで本を読む姿を見せるだけでいい。子どもに有益な絵本や児童書を子ども部屋に配置するのは親の務めだ。勉強もしかり。勉強せよとは言わず、親が喜々として勉学に励む姿を見せるだけで良い。

 

 教育虐待が起きる本当の原因は、親の生き方や考え方、または思想・哲学が低劣だからだ。親たちが正しく高邁な価値観を持ち、世の為人の為に必死に仕事をして、人生を謳歌しているのであれば、自分を信頼できるし子どもを心から信じることが出来る。そういう親なら、子ども自身が自ら努力することを信じるし、子どもの明るい未来がやってくるのを確信できるから、子どもに期待もしないしプレッシャーをかける必要もない。親は子どもの未来に対する不安や恐怖もないから、微笑みながら子どもに寄り添うだけでよい。勿論、子どもには日常的に正しい哲学を伝えることは必要である。それ以外は何も言うことはない。

 京都南丹市で起きた児童殺人事件によって、SNS上では子連れ再婚の賛否についての記事が数多く掲載され、コメントも燃え広がっている。子連れ再婚について事情の知らない他人が意見を述べるというのは、けっして誉められる行為ではない。極めて異例な事件を取り上げて、まったく関係のない他人の行動を批判・否定する行為は許されない。こういうひとつの事案からすべてのケースが同じだと類推するのは、極めて不適切である。批判される多くの子連れ再婚の方々の悲しみに寄り添っていない投稿は避けてほしいものである。
 
 また、同じ親子でも血縁がないと愛情が注げないとか、やはり継父は子どもとの信頼関係が築けないとか、根拠のない心無い批判をSNS上に繰り広げているのには心が痛めつけられる思いである。血の繋がりがなくても、親子の情愛は構築される。立派に子育てしている継父だって沢山いる。だから子連れ再婚は避けるべきだとか、継母や継父は子どもに愛情を感じないという極端な結論に導くようなSNS上への記事掲載は厳として慎むべきである。多くの子連れ再婚の当事者を傷付けているという現実に目を向けてほしい。
 
 この事件で取り上げるべきだと思うのは、別の視点だと思う人は他にいないのであろうか。それは、被疑者の幼児期における育成環境という点である。被害者の悲しい結果に目を奪われるあまり、それが子連れ再婚によって起きたのだと短絡的思考や考察をしてしまうのは、あまりにも情けないし、同じような境遇の人たちを傷付けてしまう。何故、こんなにも悲惨な事件が起きたのは、こんな加害者を産み出してしまった社会にあるという洞察を、何故出来ないのであろうか。報道機関やマスコミ、そして多くの市民に深く考えてほしい。
 
 被疑者の家庭環境についての報道がされていている事実から分かったのは、不幸にして両親の養育が中断されてしまい、祖父母に養育者が変更になったという点である。おじいちゃんやおばあちゃんによって、ご両親以上の深くて豊かな愛情が注がれて育ったのであれば、こんな不幸な事件は起きなかった筈である。ここで留意すべき点は、祖父母に育てられた人がすべて、被疑者のような人格を持つかというと、けっしてそうではないということだ。たまたま被疑者の養育環境が恵まれたものではなかったのではないだろうか。
 
 被疑者が祖母から可愛がられていたという、実家の近所に住んでいた方からのコメントが報道されていた。被疑者の祖父母は、両親以上に愛情を孫(被疑者)に対して注いでいたように思う。しかし、だとしても両親から祖父母の手に養育が変更になった際に、被疑者は大きな悲しみと苦しみ、そして多大な寂しさを抱えたに違いない。特に、お母さんの愛情は他の人では到底代えられないものなのである。この養育者の突然の変更というのは、大きな心の傷(トラウマ)となって、大人になっても消えないものになってしまうのである。
 
 すべてのケースがそうなるのではないが、養育者の突然の変更により、重い不安定なアタッチメント(愛着障害)を抱えることはよくあることである。両親の様々なのっぴきならない事情により、祖父母の手に養育が任されるというのはよくあるケースである。その際に、愛着障害を抱えてしまう子どもは少なくない。そして、その愛着障害のうち『見捨てられ不安』というのが非常に色濃く残る例が多いのである。この見捨てられ不安、見離さられる不安というのは、その後の人格形成に多大な影響を与えてしまうことになるのだ。
 
 この見捨てられ不安が強い為に自己否定感が強大になり、大人に成長してからも『自分は愛されない存在なんだ』と強く感じる。そして、自分を見捨てないかどうかわざと嫌われるようなことをして、『試し行動』をするのである。パートナーに対しても、我が子に対しても試し行動をしてしまう傾向がみられる。そして、その試し行動によって嫌われる態度を取られてしまうと逆上してしまい、相手に対して敵意と攻撃性が芽生えるのである。被疑者の試し行動により、幼くて相手の心理が読めない被害者が嫌悪的な態度を取り、被疑者を逆上させてしまい、自分が見捨てられると思い、殺意を抱いてしまったのではなかろうか。
 
※このような不幸な事件を二度と起こさないようにするには、どうしたらよいでしょうか。どうしても祖父母が養育しなければならない場合は、躾(条件付きの愛情)を後回しにして無条件の愛である『母性愛』だけを4歳~5歳までは注ぎ続けてほしいものです。そして、可能ならば母親は頻繁に子どもの元に馳せ参じて、じゅっと抱きしめてほしいと思います。『見捨てた訳じゃないんだよ、必ず迎えに来るからね』と右の耳元で囁きながら。

 人間は生まれ持って、それぞれに果たすべき役割を持っている。社会に対して、特定の役割を果たすことが、ミッションとして組み込まれて生まれてきていると言い替えてもいいだろう。それは、安易な言い方では社会貢献とか地域貢献と呼ばれることもあるだろうし、またはある特定の人に対する特別な貢献を意味することもあろう。いずれにしても、世の中や人々に対する貢献をするように、またはそのようなことをしたいと願いながら、この世に生まれてくるのだ。その使命を果たそうと努力するのが、その人の生まれてきた意味だ。

 

 ところが、人間はその生まれてきた意味や生きる目的を明確に覚えて生まれる訳ではない。肉体を持ってこの世に誕生する前には、明確な生きる目的を与えられているにも関わらず、誕生してから暫く経つと、そのことを忘れるようにシステム化されているのだ。何故そうなるかは解らないが、だからこそ人間は苦難困難の道を歩むことになる。悩み苦しみ、悲しみのどん底に沈みながらも、懸命に生きることを目指すのである。自分が与えられた使命を忘れないように、そして思い出してミッションを果たせるように苦しむのである。

 

 さて、そんな尊い使命を与えられた人間であるが、いかにも自分はそのミッションが解ったかのように、社会貢献らしきものに取り組もうとしている人も時折見かける。それはスピリチュアルに覚醒したとか、自分はスターシードであるとか、ライトワーカーなんだと謳っている人である。そして、占い師とか導師とか称し、偉く高い利用料を要求して、自分は大きな社会貢献をしているのだと誇らしげに喧伝している。確かに悩み苦しむ人々を一時的には救って心を軽くさせてはくれるかもしれないが、中途半端な救いは百害あって一利ない。

 

 ましてや、自分はいかなる自己犠牲も払わずに、人助けをお金儲けの手段として利用するというのは、まったく頂けない行為だ。こういう人々は必ずこう反論する。適正な利用料を頂かないと、社会貢献は続けられないし、料金が発生することで価値が生まれるのだと。確かに、それもひとつの言い訳や方便としては見事である。しかし、自己犠牲を伴わない社会貢献は、絶対にあってはならないし、そんな社会貢献は偽善でしかない。勿論、偽善だって人々の幸福に寄与するなら意義はあと言えるが、世の中を変革するには不十分だ。

 

 いくら社会貢献と言っても、自分の生活も大事であるし、ビジネスとして成立しなければ継続できない。社会貢献に対して、ある程度の対価が必要だと考えている人も少なくない。確かにそれも正論であるものの、ある程度の自己犠牲が必要ではないかと考える。そこまで自己犠牲を強いられてまで、社会貢献すべきでないと思う人も少なくない。しかし、よく考えてみてほしい。ある程度の自己犠牲を払う覚悟で社会貢献に取り組むからこそ、サポートを受けるクライアントは感激し、自らの変革に本気で取り組もうとするのである。

 

 社会貢献をする際に、支援者側の自己犠牲さえ厭わないという覚悟があるとないとでは、その支援の成果に大きな違いが出る。ビジネス的な要素を強くしてしまうと、支援の効果は出てこないし、対価に対する成果をクライアントが要求しやすい。それだけでなく、自分で自己変革をしようと努力しない。社会貢献での支援をされる側は、ただ受け身の態度では支援の成果が出ないのである。支援をする側が自己犠牲さえ厭わずに、これでもかという程手厚い支援をしてくれたら、支援者はその支援に報いたいと思うに違いない。

 

 いくら社会貢献において自己犠牲の覚悟が必要だと言っても、支援者が悲壮感を漂わせてはならない。または、自己犠牲をしていることに自己満足にしてはならない。そして、こんなにも自己犠牲をしているのにという態度でクライアントに接してはならない。こんな姿勢で社会貢献に臨んでも、中途半端な成果しか上げられない。自己犠牲をしても、それを楽しむような態度が必要であろう。ましてや、社会貢献活動をすることを目的化してはならないのである。社会貢献活動は、望むべき社会変革のためのひとつツールであり、手段でしかない。だからこそ自己犠牲を進んで受け入れる覚悟が必要なのである。

 

※森のイスキアの佐藤初女さんのおむすび作り体験会を開催している人たちをよく見かけます。それは立派なことですが、参加費を5000~6000円に設定しているケースが殆どです。確かに材料費・会場費・講師謝礼が必要だとしても、そんなに参加費を取るという行為は、はなはだ疑問に思うのです。佐藤初女さんに実際におむすび体験会を開催しますけどと事前了解を得ようとしたときに、初女さんは「開催することは構いませんが、何を目指すのかさっぱり解りません」と答えたということです。おそらく嘆いていたと思います。佐藤初女さんのおむすびは、ひとつの手段・ツールであり、おむすびを握ることが目的ではないのです。せめて無料に近い参加費に設定して、その後の社会貢献活動に取り組む人々を育てるのなら意味があると思うのです。