普通の親であれば、我が子を愛しいと思う筈である。我が子を素直に愛せない毒親という例外もあるが、たいていの親であれば我が子が可愛いと思うのは当然である。そんな可愛くて愛しい我が子だからこそ、大人になって困らないようにと、自立への道を歩ませたいと願うのである。これは基本的に間違ってはいない。人間として自立できないと、親から離れることが出来ないし依存したままになってしまい兼ねない。我が子が自立できないのは親の責任だと考え、何とか自立させたいと苦労する親が多いことだろう。

 

 そんな自立へのステップを何とか踏ませたいとあれやこれやと手を尽くす親が多いのである。しかし、親が子どもを無理に自立させようとするのは、実は子どもの自立を阻害してしまうという誤謬に気付いていない親が多いのである。そんな馬鹿なことがある訳がない。親が子どもの自立を支援し後押ししてあげなければ、子どもはいつまでも自立できないだろうと反論する人が殆どであろう。確かに親が子どもの自立を見守る必要はある。しかし、無理に自立させようとあれこれ手を尽くすのは逆効果になるのである。

 

 子どもが育つうえで、一番大事なことは親が子どもへの限りない愛情を注ぎ続けることである。この愛情の掛け方を間違えてしまうと、子どもの自立は阻害されるのである。この愛情というのは、無条件の愛という意味であり、あるがままにまるごと愛するという母性愛のことである。しつけとか基本的なマナーを教えることも大切であるが、まずは母性愛をたっぷりとこれでもかと注ぎ続けることが肝要である。その後にしつけである父性愛を注ぐのである。この母性愛の後に父性愛を注ぐという順序が大事なのである。

 

 ところがこの無条件の愛情が不足した状況の中で、厳しいしつけや指導をしてしまうと子どもの心は健全に育たないのである。子どもは安全で安心できるという環境で、無条件の愛情を注がれることで自己組織化という大切な能力が育まれる。この自己組織化というのは、主体性・自主性・自発性・進化性・発展性・自己犠牲性・連帯性という人間の自立に欠かせない働きのことである。この自己組織化の働きとは、あまりにも干渉や介入をされると身に付かなくなるのだ。無理に自立させようとすると自己組織化しないのである。

 

 現代日本の中で、不登校やひきこもりが多くなってしまっている原因のひとつが、あまりにも保護者が子どもに強く干渉を繰り返した為なのである。つまり、親の過干渉や過介入によって、子どもの自己組織化が阻害されて、結果として自立が出来なくなってしまっているのだ。無理に自立させようと親が子どもに指示や指導をし過ぎた為に、自立できなくなっているという皮肉な結果を生んでいるのである。親からの過干渉や過介入は、子どもの不安感や恐怖感を増大させ、自己組織化を阻害しているのである。

 

 ましてや、親は口癖のように勉強しないと良い学校に行けないし、望むような就職が出来ないと、恐怖を押し付けながら勉強を強いる。良い成績を上げないと、やがて人生が破綻するよと脅して勉強をさせようとする。これでは、子どもは不安感や恐怖感が心を支配して、自己組織化する訳がない。ましてや、自立できないばかりか怖くて社会に踏み出せないし、自宅にひきこもるしかなくなるのである。子どもは親がどんなことがあっても自分を見捨てないし守ってくれるという安心感を持つことで自立できるのである。

 

 子どもが親に依存してしまうと自立できなくなると思っている親が多い。だから、子どもに必要以上に厳しく接して、甘えさせないようにする親が殆どである。これはおおいなる間違いだ。子どもは親に甘えて甘えて甘えし尽くすと、安心して自立への道を歩み始める。親子関係が安定していて十分に無条件の愛情を注がれ尽くすと、自己組織化が勝手に起きて、子どもは自立するのである。獅子は我が子を千尋の谷に落とすという諺がある。これは事実に反する。ライオンは我が子を保護し尽くすことで、自立させる。人間も同じだ。無理に自立させず、十分な無条件の愛情を注ぎ続けることが必要なのである。

 世界経済フォーラムが男女格差の指標である各国のジェンダーギャップの調査結果を発表した。対象国145ヶ国の中で日本は117位だという。先進国の中で最下位なのは勿論、アジア太平洋地域の中でも下から3番目だという。日本という国は、これだけ男女平等を謳いながら、実際は男女格差が非常に大きいということで、男性優位の国だということである。これは女性に対して優しくないということであり、生きづらさを女性が感じる国だということである。このジェンダーギャップが大きいから、女性は活躍しにくいのである。

 

 この男女格差ジェンダーギャップが大きいと、女性は子どもを産み育てたいと思わないし、そもそも結婚したいと願わなくなる。日本は少子化が問題となっているが、その重要な要因にジェンダーギャップがあるのは間違いない。労働条件は男女格差が少なくなっているが、賃金や昇進などは、まだまだ男女格差が存在している。それも中小企業よりも大企業のほうが、男女格差が大きいというのは非常に残念だ。女性の政治家や企業の役員は、圧倒的に女性が少ない。ましてや、公職や名誉職を務めるのは男性が殆どである。

 

 どうして日本の男女格差ジェンダーギャップが大きいのであろうか。このジェンダーギャップというのは日本にいつからあったのであろうか。歴史を紐解きながら、何故ジェンダーギャップが生まれたのかを明らかにしてみたいと思う。男女の家庭での役割分担がその性差により違うのは、当たり前である。その性差による家庭における役割分担があったのは、縄文時代から存在していた。これはジェンダーギャップとは言わない。どちらかというと女性中心社会だったと想像されているから、ジェンダーギャップが低かったであろう。

 

 弥生時代から私有財産制度が始まったせいで、男性の家長を中心にした社会が続き、ジェンダーギャップがあったに違いない。その後の封建社会からは女性の意志を無視して、男性のために戦略結婚を強いられたので、ジェンダーギャップは大きかったであろう。江戸時代は、男性中心の武家社会ではあったものの、一般庶民の生活においては意外にも女性の権利が認められていたし、女性が活躍できる場が存在していた。ジェンダーギャップ指数は現代よりも低かったと想像できる。意外と女性の権利を尊重して守るような社会であった。

 

 ジェンダーギャップが大きくなったのは、明治時代からだ。女性の参政権を認めなかったし、女性は子どもを産み育てる役割を強く押し付けられ、社会参加をさせてもらえなかった。男性の家長に対して、女性は逆らうことができず、従属するしかなかった。 この男性中心の社会は、大正から昭和へと続いていき、戦後もその流れを引き継いでしまった。戦後の民主的で男女平等を謳った日本国憲法が制定されたのにも関わらず、相変わらずジェンダーギャップは縮まらなかった。保守の政治家たちが敢えて男性社会を望んだのである。

 

 日本の政治家と行政を司るキャリア官僚というエリートたちは、女性が家を守り外で働き活躍することを嫌がったとしか思えない。妻たちを社会に出さず家に縛り付けるための社会システムを、エリート男性たちが巧妙に創り上げたと言える。それを女性たちも気付かないで、甘んじてしまったという側面もある。どういうことかというと、社会保険制度や税制を巧妙に利用して、女性が外で必要以上に活躍できないように仕組んだのである。厚生年金の第三号被保険者制度、配偶者特別控除などがそれである。

 

 男女別姓婚姻制度は家庭を崩壊させるとして保守政党は頑として認めないが、これも女性を男性の所有物としか見ていない男性たちのエゴである。女性たちは、真の自立を目指して立ち上がる必要がある。聡明な女性たちは、声を上げつつあるものの大勢にはなっていない。日本のジェンダーギャップがこんなにも大きいということを、マスコミも大々的に取り上げるべきだし、SNSを発信している人々もこういう事実こそセンセーショナルに提言する必要がある。ジェンダーギャップが少なくなれば、少子化も改善するし企業の生産性も高まり、日本の繁栄も実現するのは間違いない。

 ムシヤシナイという言葉を聞いたことがあるだろうか。大阪周辺でご年配の方々なら聞き慣れているだろうし、普通に使っているかもしれない。関東から以北の東北・北海道の方は聞いたこともないに違いない。ムシヤシナイとは漢字で虫養いと書く。虫とは生き物の虫ではなく、おそらく腹の虫のことであろう。小腹が減った時に、しっかりした食事の代替品としての軽食のことを言うらしい。職場や学校からの帰宅途中に食べる立ち食い蕎麦・うどんのことを指すことが多い。腹の虫を養うことからムシヤシナイと命名されたのだろう。

 

 高田郁さんという作家さんが『ムシヤシナイ』という珠玉の短編小説を著している。高田郁さんというと、『商い世伝 金と銀』『みをつくし料理帖』『銀二貫』などNHKテレビでドラマ化されているほどの名作を書いた著名な小説家である。大坂のある駅の構内にあるうどん屋に勤める60代後半の男性のところに、東京に住む男の子(高校生の孫)が突然やってくる。孫は父親(当該男性の子ども)から厳しく勉学を強制されて、激しく叱責されたおりに怒りと憎しみのあまりに、包丁で父親の腹を刺すことを思い浮かべてしまった。

 

 そのことをきっかけにして、包丁を見ると恐怖を感じるし、父親と一緒に暮らすとまた同じことが起きないかと恐くなり、家を飛び出したのである。うどん屋に勤める男性は、あまりにも孫に厳しく接する父親に意見をして、言い争いになってから親子関係が疎遠なっている。そんな孫が突然大阪に出てきたのだから、何事かあったに違いないと思いながら、何も問いただすことはせず温かく迎えて、妻を亡くして独り暮らしの安アパートに泊めさせる。孫の父親には、祖父のところでしばらく預かると伝える。

 

 どうして駅構内のたいして美味しくもなく儲けの少ないうどん屋なんかに勤めているのと祖父に問う孫に、ムシヤシナイという言葉を教える。腹いっぱいになるようなものではなく、ほんの一時しのぎの間に合わせのようなうどんだけど、お客はこれでお腹が満たされるのだと言う。これは食べる人にとっては、なくてはならない存在になっている。常連さんも多いんだよと教える。ムシヤシナイは、お腹を満たすだけでなく、満たされない心を少しだけ満たす効果もあるに違いない。ムシヤシナイは関西ではソウルフードなのであろう。

 

 祖父は孫を連れて閉店後のお店に連れて行き、翌日の仕込みを手伝わせる。大量の長ネギを切らせる。最初は包丁を握ることに対する恐怖があったが、慣れてきてネギを小口に切ることができた。その時に祖父は孫に優しく言ってきかせる。「もう大丈夫だ、包丁は食材を切る為にある」と言われた孫は、号泣する。孫は、父親にはっきりと自分の気持ちを伝えることを祖父に約束して、東京に戻って行く。実に感動的なヒューマンドラマである。高田郁さんの小説は、人間の本質を問う小説であり、生きることの意味を教えてくれる。

 

 さて、ムシヤシナイは高級な食材を使うものではなく、ごくありふれたもので簡単に調理して手早くお客さんに提供する、いわばファストフード的なものである。せいぜい、ワンコインでお釣りが来るようなリーズナブルな価格設定になっている。そんなムシヤシナイではあるが、お腹は満たされるし何故か心がほっとする食べ物だ。これが一流レストランの高級食材を使用したグルメでは、心がほっとする瞬間は訪れない。誰でも気軽に暖簾をくぐれて、普段着のサンダル履きでも入れるお店でしか、ムシヤシナイは提供できないのだ。

 

 ムシヤシナイは何も食べ物だけに限定するものではないかもしれない。人生に疲れたり挫折をしたりして、メンタルが落ち込んでしまい生きる気力を失った方々に、何かほっとするようなことをしてあげたり話し相手になったりするほんのちょっとしたことも、ムシヤシナイになりはしないだろうか。ほんのちょっぴりかもしれないけど、生きる気力を取り戻してもらったり再チャレンジする勇気を与えたりすることもムシヤシナイと言えるに違いない。だいそれた支援とか治療ではなく、ムシヤシナイ的な小さなサポートが出来る人になりたいとつくづく思う。