日本の教育制度は、世界でもトップクラスの充実度にある。こんなにも世界に誇れる立派な教育制度なのに、不登校やひきこもりがこんなにも社会問題化している国は他にない。不登校やひきこもりが顕在化してから数十年も経過しているのに、その解決の道筋さえ見えない。そればかりか、益々深刻化しているし増えてきている。文科省、教委、学校はまるで傍観しているような態度をしている。不登校は家庭の問題だと言わんばかりの姿勢である。不登校からひきこもりの経過を辿る青少年を救えないのは、機能不全社会だ。

 

 文科省、教委、学校における教育を提供する側では、不登校になる原因が学校そのものにあるとは捉えてなくて、家庭教育にあると認識していると思われる。いじめ、不適切指導、成績不良、孤独感などの不登校になる要因は、あくまでもきっかけでしかなくて、子育ての不適切さに原因があると考えている教育関係者が殆どである。それでも、教育関係者は不適切な子育てに不登校の原因があるとは、口が裂けても言えない。そんなことを主張したら、世間から大バッシングを受けてしまうからだ。

 

 学校においては、同じ環境に置かれているのにも関わらず、普通に登校している子と不登校になる子がいる。教育の機会均等は守られているし、教え方や関わり方の分け隔てをしている筈がない。唯一相違があるとすれば、家庭における育てられ方の違いだけである。したがって、不登校になるのは不適切な子育てによるものだとしか考えられないとするのが、学校教育の関係者の共通認識である。だから、文科省、教委、学校の関係者は、不登校の子どもたちの為に教育制度を改める気持ちには、絶対にならないのである。

 

 確かに、不登校になる原因を作ったのは家庭における子育ての不適切さにあるとする考え方は間違ってはいない。しかし、子育てにおける不適切さのそもそもの原因を創り出したのは、実は学校教育における誤謬だったのである。子育てにおける不適切さはあったかもしれないが、その不具合を顕在化させるだけでなく、強化させて固定化したのは学校教育現場である。しかも、親の教育に対する間違った考え方を強いてしまったのは、教育制度の欠陥にあったと言える。つまり、不登校の大元の原因を作ったのは、学校教育の欠陥なのである。

 

 現代の教育制度の根幹と教育理念を創生したのは、明治維新政府である。その時の明治維新政府の中心になったのは、薩長を中心にした明治政府の元勲と呼ばれる人々である。大久保利通を中心にした政府の要職たちである。欧米列強たちに対抗する為に、富国強兵を協力に推し進める手段として、近代教育制度を取り入れるしかないと考えたのも当然であろう。この近代教育の欠陥を見抜いていたのは、大久保と同郷の西郷隆盛である。近代教育制度を妄信的に取り入れたら、日本の教育は駄目になると強固に反対したのである。

 

 近代教育制度の致命的な欠陥とは、人間の自己組織性を無視した教育制度という点である。教育の本来あるべき姿というのは、人間の自己組織性を育む教育である。生まれ持った本来の良さを引き出す教育であるべきなのだ。だから、子どもたちに対してなるべく介入や干渉をすることなく、知識や技術を教え込む教育ではなくて、子どもの主体性や自発性を導き出す教育をするべきなのである。ところが、国家に対して恭順で技能の高い国民を育てようと意識するあまり、過干渉の教育を推し進めてしまったのである。

 

 学校教育の悪い点を家庭における子育ても見習ってしまった。子育てとは、保護者が過干渉をして教え導くものという間違った考え方を認識させてしまったのである。しかも、客観的合理性をあまりも重視して、互恵的関係性をないがしろにして共感性を失くさせ、家族や社会を分断化してしまったのだ。多様性を認めず、個性を排除して画一的なイエスマンだけを創り出す教育を推進した。そして、子どもから自己組織性を奪っただけでなく、自己肯定感さえも喪失させたのである。不登校、ひきこもり、機能不全家族、ハラスメント社会、発達障害、精神障害、貧困、格差社会を創り出したのは、すべて教育制度の欠陥によるものだ。

 日本ほど、こんなにも多くの教育問題が起きている国は他にない。学校現場では、不登校、いじめ、暴力、不適切指導、モンスターペアレンツ、パワハラ、セクハラ、モラハラ、挙げればきりがない。家庭においては、機能不全家族、家庭崩壊、ひきこもり、家庭内暴力、摂食障害、場面緘黙症、こんなにも多くの問題が起きている家庭が多いのである。そして、これらの問題が解決するどころか問題は深刻化しているし、増え続けている。文科省、教委、学校はこれらの問題解決をする道筋さえ見つられていない。

 

 これらの教育における問題が、なぜ起きているのかという原因を突き止めることさえ出来ないのだから、解決策が見つかる筈がない。これらの教育の問題が、実はひとつの原因によって起きていると認識している日本人は極めて少ない。一部の見識ある日本人は洞察しているが、殆どの政治家や行政マンは気付いていない。これらの教育問題が、そもそも教育の間違いによって起きていることを。教育の本来の理念や目的を履き違えているのだから、問題が起きるのは当たり前である。こんな単純な間違いを何故気付けないのだろうか。

 

 日本における教育が大きな過ちを起こしたのは、明治維新以降の近代教育の導入時に遡る。明治維新で開国して、欧米諸国の軍事力や経済力との大きな格差に、時の政府は驚いた。何故にもこんなに違うのかと考えた。それは、日本の教育があまりにも列強諸国のそれに劣っているからだと結論付けたのである。富国強兵の為には、西欧の近代教育を取り入れて、客観的合理性や能力至上主義の教育をして、国家に恭順な市民を育てることが大事だと考えた。そして科学万能主義の考え方を国民に植え付け、国家に忠実で有能な国民を育成したのだ。

 

 こんな学校教育をしてしまったら、自分で考えることが出来なくなると、その危険性を見抜いていた人物がいた。それは、西郷隆盛その人である。彼は、近代教育の導入に猛反対をした。しかし、彼が西欧諸国を巡っているその隙をついて、大久保利通や山形有朋たちが無理矢理に近代教育の導入を決定したのである。この近代教育一辺倒による弊害が、現代における教育問題に表出したと言っても過言ではない。この近代教育の一番の誤りが、人間として大切な『自己組織化』という働きを子どもたちから奪ってしまったことにある。

 

 自己組織化というのは、すべての万物に本来備わっている働きである。便宜的に自己組織性と呼ぶことにするが、これが人間をして人間たらしめる大事な要素である。主体性、自主性、自発性、責任性、連帯性、統合性、進化性、自己犠牲性といった大切な働きである。これらの自己組織性は、人間のみならずすべての生物の細胞に備わっているし、宇宙システム全体にも存在している。この自己組織性を無視した教育をしたら、人間から健全に生きていく為には必要不可欠な自己組織性を奪ってしまうのである。

 

 学校教育や家庭教育で自己組織性を失ってしまった青少年は、指示待ち人間になるばかりか自分で考えることを停止してしまい、当事者意識さえも失くしてしまったのである。さらには、客観的合理性を追求し過ぎた教育のせいで、共感性や連帯性も失くし、自己中心的で我欲に凝り固まった低劣な価値観の青少年を大量に育成したのだ。自分さえ良ければいいと、個別最適を追求する人間ばかりになり、他人を傷つけて蹴落としでも自分の幸福を追求するような低劣な価値観の人間を産み出した。社会の分断化が起きたのだ。

 

 人間は本来の豊かな自己組織性を持てたとしたら、全体最適・全体幸福を求めるのである。そうすれば、教育の様々な問題なんか起きる筈もないのである。お互いの多様性をリスペクトし合うので、いじめや暴力などが起きる訳ないし、メンタルを病む青少年はいないし、不登校ひきこもりなんて起きる訳がない。近代教育のすべてが誤っているとは言えない。近代教育の間違っている部分を修正して、自己組織性を育む本来の正しい教育理念に立ち返れば、たちどころに問題は解決するに違いない。西欧社会がその間違いを気付いて修正したように。

 以前に東京メトロの東大前駅で刃物を振り回して通行人に傷害を負わした事件で、犯人は自分が教育虐待を受けて不登校になったので、社会に対する恨みを晴らす為に犯行に及んだと供述し話題になった。恨みは教育虐待をした親に対して持つのが当然なのに、そんな教育虐待を起こさせる社会が悪いと逆恨みのような理論を展開していた。教育虐待の同じような例が多々ある。滋賀県の看護学生が、医学部に入学させたいと教育虐待を行っていた母親を殺害した例がある。また、佐賀県の青年は父親の暴力や教育虐待から、両親を殺害した。

 

 こんな悲惨な事件になるのは稀なケースであろうが、同じように教育虐待と言われるような有形無形の圧力を親から掛けられて、精神を病んでしまった青少年は想像以上にいるのではなかろうか。最近は、盛んに教育虐待という言葉が使われるようになったが、以前は教育熱心な親とか、教育ママと呼ばれていた。子どもの幸福を強く願うあまりに、ついつい子どもに対して強い期待を持ってしまい、学業成績や進路に対してあまりにも口出しをする親が増えてしまったように感じる。教育に関する行き過ぎた介入・干渉・制御は教育虐待だ。

 

 教育虐待が盛んに行われているのは、日本だけではない。お隣の韓国や中国でも教育虐待と言われるような過度な家庭教育が実施されている。学歴こそがその後の人生を決定させてしまうような学歴偏重社会においては、教育虐待が起きやすいのかもしれない。日本においても、受けた教育の程度により人生が決定されてしまい、負け組と勝ち組に分けられてしまうような社会だからこそ、教育虐待は起きてしまうのかもしれない。ネット上でも、ある程度の教育熱心な親による強い指導は、子どもに必要だとする意見も少なくない。

 

 ある程度の教育虐待は、子どもの成長には必要なのであろうか。教育熱心な親のほうが子どもは高学歴になるし、いい学校に行けて高収入になれるから、無放任の親よりは幸福になれると思う人が多いのかもしれない。学習塾に行かせられたり家庭教師を与えられたりしたほうが、やがて幸せな人生を送れると思っている親が多いことだろう。こういう親は、自分が教育虐待をしているという自覚はない。教育格差における負け組にならないように、教育成果を上げるために必死になっている。子どもの教育は、親の責任だと思っているからだ。

 

 緩やかな教育虐待、ある程度の親からの厳しい指示や制限は許されるのか、という問いにはこう答えたい。子どもが危険な目に遭うのを防ぐため、または法を犯す怖れがあるとか、周りの人々を傷つける危険が高い場合は、厳しく指導すべきである。それ以外のケースでは、なるべく指示やコントロールは避けたいものだ。ましてや、子どもの進学・進路については、口出しをすべきではない。子どもがどんな進路を選択しようとも、親はその選択を尊重する態度が必要だ。子どもがどんな結果を得ようとも、親はそれを受け入れなくてはならない。

 

 そんな放任主義のようなことをすれば、子どもは楽な道を歩こうとするし、勉強もせずに堕落してしまうだろうと、心配する親がいるのも承知している。それも、その子にとっては大切な学びと経験であるから、親はそっと見守るべきである。ただし、親は子どもの見本になるような後ろ姿を見せることが肝要だ。読書しなさいと叱るのではなく、親が楽しんで本を読む姿を見せるだけでいい。子どもに有益な絵本や児童書を子ども部屋に配置するのは親の務めだ。勉強もしかり。勉強せよとは言わず、親が喜々として勉学に励む姿を見せるだけで良い。

 

 教育虐待が起きる本当の原因は、親の生き方や考え方、または思想・哲学が低劣だからだ。親たちが正しく高邁な価値観を持ち、世の為人の為に必死に仕事をして、人生を謳歌しているのであれば、自分を信頼できるし子どもを心から信じることが出来る。そういう親なら、子ども自身が自ら努力することを信じるし、子どもの明るい未来がやってくるのを確信できるから、子どもに期待もしないしプレッシャーをかける必要もない。親は子どもの未来に対する不安や恐怖もないから、微笑みながら子どもに寄り添うだけでよい。勿論、子どもには日常的に正しい哲学を伝えることは必要である。それ以外は何も言うことはない。