今日は、直木賞の授賞式。
今年は『月の満ち欠け』佐藤正午。
私にとっては特別な人。
どうしてそんなに、佐藤正午が好きなのか?
30年以上、つまり、彼がデビューしたその時から、好きでい続けているのか?
・・・ところで、あなたは、こんな男が好きですか?
見た目はあくまでも普通、いやどちらかというと大勢の中では目立たない。
集合写真なら、背が高いこともあって、端っこのほうに。
写っていればいいほうで、もしかしたら、しれっとそこから抜けている。
ボーっとしているのかと思うと、話してみれば博学で、
というより、どうでもいいことをたくさん知っている。
そう、例えば、ゴリラが胸をたたくのは威嚇のためではなく、
けんかをやめようよという合図、だとか。
みどりのゆびっていう物語の最初の1行と、
最後の1行について、ぽろっと訊いてきたりする。
「もしぼくらが大人になるためだけに生まれてきたとしたら・・・」
わからないと、すこし軽蔑の混ざった哀しい目で見る。
仕事は続かなくて、気まぐれで、食べることにも、着ることにも興味がない。
明らかに、社会人として不安定そのもの。
そのくせ、料理がちゃんとできるとか、
掃除をちゃんとするとか、
時間を守るとか、に一定の評価をする。
生意気なことに。
好きだ、なんて絶対に言わない、
積極的にくどいたり、追いかけてきたりもしない、
そのくせSEXの評価は気にしてみたり、
そこじゃないタイミングで追いかけてきたりする。
たいがい手遅れで、だったらもっと早くいってよ、
そうだな・・・と無口になる。
非道なことには、興味と理解を示したりする、
じしんは、非情なこともできない。
優しいのかと思うと、
冷たいのかと思うと、
優しい?でも、変化球の優しさは、いつも相手を不安にさせる。
自分のことを可笑しいと笑える、ほどに自分が大好きで、
なんなら、自分と心中してもよくて、
ただ、そんなことを見透かすような女は苦手。
当然、本を読む女も嫌い。
だけど、馬鹿な女は嫌いで、
地頭がいいけど、気がついていない女を見つけるのが得意。
子供っぽいけど、5歳じゃなくって、小学校4年生くらい、
読み書きも考えもできるからよけいにややこしくって、
めんどくさくって、
自分勝手を正当化する しゃれたへ理屈が瞬時に言えるほどに賢くて、
むかつくけど、
許せないけど、
守りたくなる、そんな男。
目立たない男だった、で終わっていればなんでもなかったのに、
知ってしまうと、忘れられない、
一人にはさせられない男。
好きですか?
こういう男にはまるのは、たいがい、はたから見たらバカな女。
男に対して、ついつい母親になっちゃう、ダメな女。
もうやめときなー、と小賢しい女友達から言われたりする。
現実の世界なら、親兄弟にも止められる。
でも、私は、どうやら実のところ、そういう男が、
男のそういうところが?たまらなく好きみたいです。
だから好きなんだ、佐藤正午が。
私の場合、好きな小説にはふたつの種類があって、
A:この作品が素晴らしい、と思い作品にはまる、
B:この人好き、たまらなく好き、と思い、作品から作家にはまる。
AでもBでも、その作家の作品は結局、全部読むのだけど、
Bとなると事情が違ってくるわけです。
熱病のように、恋焦がれる。
結果として全作制覇している作家は、結構いますが、
Bは少ない。
Bとなると、ちょっとつまんないんじゃないかとか、
今回は左手で書いた?とか(勝手に)思うことがあっても、
好きなものは好きで、会うたびに(作品に)ドキドキするわけです。
もちろん、佐藤正午という作家は数少ないその一人なのだけど、
正直なところ、狂おしく好きすぎて、
ときどき、男の子を持つ母が感じるような、
めんどくささに、うんざりしながらも、
性懲りもなくもっと好きになる・・・唯一無二の作家です。
だから、作品の評価なんて、感想なんて、もはや言えるわけもな~い。
一般的に、文章の巧さを、ものすごく高く評価されているわけですが、
その巧さも、鼻につくような巧さで、(ほめている)
よく思うのが、
「 今日の新聞を1面からラテ欄まで、すべて1つの文につなぎなさい。」
という問題が出たら、苦も無くさらさらとやってのけて、
縁側で涼んでるんだろうなーと。
可愛げがないと思いながら、
その実、よくできました!とほめて欲しがってる感じがかわいくて、
抱きしめちゃうんだろうなーと。
そこがまたむかつく感じなんだ・・・と、変態スパイラルにはいっちゃうのだな。。。どんどん。
受賞作の『月の満ち欠け』は、そんな巧みさを存分に味わうことができると思います。
ついでに、東京駅の虎屋カフェにも行きたくなるかと。
もし、これが初の佐藤正午体験なら、この直木賞受賞作で、
あなたが、狂おしいほど好きになるか?はわからない。
でも、『夏の情婦』なら、
もしかしたら、自分の中のダメな女っぷりの片鱗をみつけられるかもしれません。
先週、文庫新刊で出た『夏の情婦』(小学館)を、久しぶりに読みました。
1989年のわたしの誕生日に刊行されたこの本の中で、
私が一番好きで、雨の日によく思い出す 『傘を探す』 。
あらためて読んだら、ほぼ記憶の通りでした。
佐藤正午っぷりを感じる小編です。
しかもご本人も、巻末の「30年後のあとがき」でこれを取り上げています。
女子なら、もしかしたら一度は、情婦か?私は?と思ったことがあるかもしれない、
もしかしたら愛されている?いやタダの情婦?
結局のところ、どっちも大差がない、
そこのギリギリの線をわかりやすくする肉体のエロさ。
自分を嫌いになりたがる(なれないんだけど)男と、
そこにちょっとした光を見出す女の話、表題の『夏の情婦』。
(余談ながら、当時、この人、川上宗薫にもなれる?と思ったのでした。川上宗薫氏は最初純文学作家(って死語)で、自身を流行作家と。この夏の情婦はたしかブルータスに出たやつで、当時すでに媒体に合わせて書いてる器用な感じもあったから。)
文庫化を担当された編集の方によれば、数か所、初出版の時と変えたところがあると。
これを見つけないわけにはいかない・・と、再び、初出のほうも読みはじめました。
もし、あなたが、わたしって、ついつい、ダメな男の母親になっちゃう?と思っているなら、
残暑の中で読んで、
正午派になるかどうか?確かめてみてはどうでしょう。
とまれ、今日は、私がはじめて直木賞に強く反応した、その授賞式。
そして、これを知ったとき、「おとめ座だ!相性がいい!」と、
バカっぷりを発揮して喜んだ、
佐藤正午の誕生日。
(きっと、佐世保でお祝いしてるんだな。)
文春さん、遅すぎだよ~と言いながら、
K様にひたすら感謝しつつ、
末席にお邪魔してきたいと思っています。
TEXT by 山脇りこ
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