シャッタースピードと絞りが
写真が「写るための」最低限の要素だった。
そして写真家は瞬時に
その最適な値を決定して写真を撮っている。
その行為だけを分析すれば、
写真を撮るものは単に、「シャッターの切れる速度」と
「絞りの径」を調整しているだけに過ぎない。
いたって機械的な操作だ。
ただ、その「機械的な操作」の帰結として
得られた画面上の像が見る者にもたらす印象は、
「機械的な操作」の延長上にある以上の
意味をもつように感じられる。
たとえば、絞りを開放にして撮った
背景に美しいボケをもつポートレートは、
画面の中のモデルを引き立たせ、
見る者の目線をしっかりとモデルへとひきつけて離さないようだ。
その写真を撮った者の行為だけをとりだしてみれば、
単に「絞り径を広くとった」、ただそれだけ過ぎない。
にも関わらず、我々はその結果生まれた
「像(これは文字通り、光学的な意味の「像」以上の
意味は持たない)」から、それが形成される過程の中には
まったく内在していそうもないような
新しいニュアンスをつかみとっている。
私自身、写真を撮る者だ。
もちろんカメラを持っている。
私のカメラは紛れも無く光学機械だ。
非常に産業的でもある光学機械。
おそらく私と同じ型のカメラを持っている人は、
何万人といることだろう。
だが私は、仮に、私のカメラと、
あと二つくらい私のカメラと同じ型のカメラが
その辺りに並んでいたとして、
その中から私のカメラを言い当てられる自信が結構ある。
もちろん、劣化状態やアクセサリーなど、
推理のための情報は少なからずあるだろう。
だが私はそれらを「情報」として受け取った上で
私のカメラを言い当てるのではなく、
それらを私のカメラの「個性」として
受け取るような気がしてならない。
機械仕掛けの総体であるカメラのなかに、
「タマシイ」と名付けるのが現時点では最も相応しいような
形而上学的な実在を見出している。
そもそも「カメラ」はどの時点で「カメラ」となるんだろうか?
そういうことも考えたらキリがなさそうだが…
次はもう少し別の例をあげて考えてみようか。