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親愛なるアルバート ~26歳までに~

1905年にアインシュタインが特殊相対性理論を発表したとき、彼は26歳だった。僕は今年で24歳。特殊相対性理論が彼にとって一つの「天命」だとしたら、僕も26歳までにそういうものを見出したいと思うのだ。これは僕の26歳までの軌跡を綴った日記だ。

シャッタースピードと絞りが


写真が「写るための」最低限の要素だった。


そして写真家は瞬時に


その最適な値を決定して写真を撮っている。



その行為だけを分析すれば、


写真を撮るものは単に、「シャッターの切れる速度」と


「絞りの径」を調整しているだけに過ぎない。


いたって機械的な操作だ。


ただ、その「機械的な操作」の帰結として


得られた画面上の像が見る者にもたらす印象は、


「機械的な操作」の延長上にある以上の


意味をもつように感じられる。


たとえば、絞りを開放にして撮った


背景に美しいボケをもつポートレートは、


画面の中のモデルを引き立たせ、


見る者の目線をしっかりとモデルへとひきつけて離さないようだ。


その写真を撮った者の行為だけをとりだしてみれば、


単に「絞り径を広くとった」、ただそれだけ過ぎない。


にも関わらず、我々はその結果生まれた


「像(これは文字通り、光学的な意味の「像」以上の


意味は持たない)」から、それが形成される過程の中には


まったく内在していそうもないような


新しいニュアンスをつかみとっている。



私自身、写真を撮る者だ。


もちろんカメラを持っている。


私のカメラは紛れも無く光学機械だ。


非常に産業的でもある光学機械。


おそらく私と同じ型のカメラを持っている人は、


何万人といることだろう。


だが私は、仮に、私のカメラと、


あと二つくらい私のカメラと同じ型のカメラが


その辺りに並んでいたとして、


その中から私のカメラを言い当てられる自信が結構ある。


もちろん、劣化状態やアクセサリーなど、


推理のための情報は少なからずあるだろう。


だが私はそれらを「情報」として受け取った上で


私のカメラを言い当てるのではなく、


それらを私のカメラの「個性」として


受け取るような気がしてならない。


機械仕掛けの総体であるカメラのなかに、


「タマシイ」と名付けるのが現時点では最も相応しいような


形而上学的な実在を見出している。



そもそも「カメラ」はどの時点で「カメラ」となるんだろうか?


そういうことも考えたらキリがなさそうだが…



次はもう少し別の例をあげて考えてみようか。

極論をすれば、


正しく写真を撮るためには、


ぶれないためにある程度以上シャッタースピードを速くし、


写し取りたい対象がピンボケにならないために


ある程度以上絞りを絞ってやればいい。


それだけが「ちゃんと写っている」写真を


撮るためのコツだと言える。


実際、ある程度適正な写真を誰もが撮れる


使い捨てカメラ(レンズ付きフィルム)は、


その目的のために、固定されたシャッタースピードと


絞り値で撮影するようになっているのだ。


(しかも光学的にはピントが合う奥行き範囲が広い


広角レンズを使っている。)


ただこれには問題がある。


シャッタースピードを速くすることも絞りを絞ることも、


入ってくる光の量を制限することなのだ。


撮ろうとしている空間や対象自体の


輝度および照度が小さいとき、


つまり、どうしてもシャッタースピードを遅くし


絞りを開放にしなくてはならない条件では


この方法は使えない。


嫌でもシャッタースピードと絞りを


調整する必要が出てくる。



それに、この両者を調整するのは


そういう目的のためだけではないのだ。


職業カメラマンは


(もちろんそれも重要な要素ではあるが、)


単にぶれてなければ、ボケてなければ腕が良い


ということにはならない。


ポートレートではその人物に注意が集まるように


背景をボカすことは常識だし、


また芸術的な写真表現をするときには、


敢えてぶれた写真を撮ることだってある。


もしくは天体の図鑑に載っているような


星が流れた星野写真は、シャッタースピードを


限りなく遅く(開きっぱなしに)することで


撮影されるものだ。


写真を撮るためには、


撮影場所の条件、装備している機材のスペック、


どんなものを撮るか、どんな風に表現したいか…など


様々なシーンの様々な条件の下、適宜シャッタースピードと


絞り値を選択することが不可欠なのだ。



しかも、それは撮影に出かける前の


初期条件を決めるということではない。


「シャッターチャンス」という言葉が表すとおり、


撮影に出掛ければいつどこで撮りたいものに出会うか、


まったく予想はできない。


(むしろ偶然的な要素は、写真にとって


極めて重要な本質である。)


写真家は眼前で移り往く一瞬一瞬のなかで、


自分の撮りたい対象を逃さないよう常に身構え、


いざその対象に出会った瞬間には、


先ほど例を挙げた様々な条件をとっさに勘案して


適切なシャッタースピードと絞り値を決めるのだ。




写真を撮るためには2つの基本的な要素がある。


・シャッタースピード 

・絞り


この2つを自在に(自動的にでも良いが、)


操作できなければ、良い写真を撮ることはできない。


ただ「良い写真」、といっても芸術的に価値があるとか、


そういう次元ではなくて、


「ちゃんと写っている写真」というレベルの話。


2つのうちいずれかが、何らかの理由で


作動しないか操作できないのであれば、


極端なときには真っ白か真っ黒な写真ができてしまうだろう。



写真とは感光材料(フィルム)に光が当たることから


全てが始まる。


感光材料に光が当たることを「露光」というが、


この露光量が適切(な範囲内)であることが、


きちんとした写真が出来上がるための


条件である。



シャッタースピードと絞りは


感光材料に当たる光を


調整するためのカメラ内の機構だ。


それぞれその名の通りなのだが、


シャッタースピードはシャッターが開いている時間、


絞りは光が入ってくるための径をどれくらい開くか、


ということをそれぞれ定めてくれる。


ただ、この2つは単に光の量を調整するだけではなく、


それぞれの数値を変動させることで、


出来あがる像(写真に写るもの)に


あるある変化が与えられる。



シャッタースピードの変化はシャッターが


開いている時間を変動させるので、


当然そこに写る「時間」も変化する。


シャッタースピードが長ければ長いほど、


長い時間を写真に写しこむことになるので、


対象(もしくはカメラ自体)が動いていれば


その軌跡が写真に写る。


つまり「ぶれる」わけだ。


反対に極めて短いシャッタースピードならば、


ごく微小な時間の世界の表情を


捉えることができる。



絞りは「焦点の合う範囲」を支配する。


絞り込めば絞り込むほど


画像の奥の方までピントが合っている写真ができ、


反対に絞りを開放にして撮れば


背景がぼけ、ピントを合わせたところにだけ


ピントが合っている写真ができる。