ヌーソロジーの半田さんの投稿から╰(*´︶`*)╯♡
文中の
「主客一致の思考を持つものたちの世界が始まる」
と言う件。

◼︎これを受けて、いつもの思考実験(シミュレーション)をしてみますと、「観るものと見られるモノの関係」が先ず、「イルとアル(居ると有る)」として思い浮かべて欲しく、そしてその両方とその間の空間の、三つの全てが「生命」としてイメージして見てほしいんですねぇ☺️
それがナル(成る)、つまり生命のコトで、これは当然ですが物体ではなく意識です。

◼︎さて、以上のことを踏まえて、コトとバ(事と場)の精神(やまとことば、ニホンゴの精神)を体感する遊び(能動性に於いて)が、円真遊戯として言っておりますが、それと言うのも、この
「主客一致の生命の在り方に成ってしまう、と言う遊びをしよう❣️」
と目論んでいるんですね〜😅

◼︎ヌーソロジーに於いては、人間の身体と言うのは、精神が進化の末に辿り着いた処として明かされています。
と言うことは、外界へではなくて、自分自身の内側に開いていく、と言うのは何を意味しているのだろうか?🤔と振り返ったトキに、大宇宙とは外界側ではなく、人間の身体側に無限の世界は反転して開かれている、とこう考えるコトが出来るんじゃね⁉️と言うコト(*⁰▿⁰*)

◼︎『おこっと』さんの名が、こーせんさんにして「日本語感が有る」と言うところですから、日本語の精神を伝えて来ていると見てもそうそう外れてはいまい(๑˃̵ᴗ˂̵)ワハハ!
どのみち人間が「ヒト」へと向かう、内側への開きを行うのには、至高の場所性である人間身体=神態(能動知性の立ち現れ)を見つめる、「青い鳥」の話し(全ては元々ココに在った)だと言えそうです(=´∀`)人(´∀`=)

◼︎主客一致の主体への転換(「等換」であるから、二極の双方は一つ処の主体の裏と表であるコトを見抜く理解力)から、生命の世界観察が、「モノ」(物体ではなく寧ろ魂、靈としての瓊(たま)のコト)の絶対的中真からその観察が起きている・・と言うコトに於いて、「モノ」の復権、万物万象の絶対的中真に生命が宿る、それがアナタだ!!・・と言う主体への私達の回帰・・

◼︎その主体の在り方に於いての瓊(たま)とは、正に私達の世界観察を今もって成り立たせているあの至高の瓊としての、「ア瓊」であり、無論これは肉体の頭のことでは無く、「世界を見つめる神の視線が、人間の視線に折り重なった場所」としてのア瓊のコトだと言えそうです(*⁰▿⁰*)

◼︎位置の等換へ戻していない認識のままに、このことを言っては逆効果😩であり、肉体としての頭が至高の存在と勘違いしては進化への逆作用であるが・・能動知性が自らの可能性を現時点で極めた処に立ち現れているのが、人間の身体の頭として在ると言えそうです・:*+.\(( °ω° ))/.:+

◼︎ア瓊へと辿り着くのには、肉体の頭から一度完全に撤退しなくては辿り着けない仕組み🤔
主客一致への認識の移行には、自己他者、自己物のその前に、自己自己の主客一致を先手に持つコトによってのみ、その認識が完全化するでしょう╰(*´︶`*)╯♡

◼︎自己自己の主客一致とはナンジャラホイ⁉️それが、頭脳と胎(仙骨)の位置の交換(主体の位置の交換)。胎の真我本霊とは、頭脳の我の進化した未来のワタシ。胎から見れば頭の自分は過去の自分。観るものは見られるモノ、観られるモノもまた見るものである・・
頭から胎を観てみよう、その時天と点(地球中真)は上下ひっくり返っている・・

◼︎真の天は点にあり、極大は極小であり、ワレ(環靈)に於いては「地そしてソラ」である順・・「極大のモノ(瓊)であるチダマ(地球)の中真こそ、無限大♾の領域の顕れでは無いだろうか🤔⁉️

◼︎数千人と言うカズに恐るるなかれ☺️
そもそも人間とはただ一つの意識、源の大生命(大神)の裏と表の片われから、仮の分離に於いて世界を体験し、体験かの理解を源へ還元する永遠の旅路の存在だから、自我一つ一つの行方は気にせず、悠々と永遠の今を生きる、ただそれのみだと言えましょう〜(^_−)−☆