「人生の自由と不自由を分かつモノの理解」として、再スタートを切りました『円真遊戯』ですが、自由自在とは大宇宙の法則に自ら則る在り方へ「力を抜いて」スーッと溶け込む、というコトを言っているわけでして、一方不自由であると言うことは、法則からズレた違和感の有るままの「頭脳のやり方」でゴリ押しする、と言う言い方に喩えられる生き方だとも言えると思います。

例えとしては、ビンの蓋と本体の様な関係で、蓋を回して閉める時に、違和感が無ければスルスルっと蓋はしっかりと閉まります、これが自由自在☺️の状態で、一方、回して閉める途中に、微妙な違和感が感じられる時に、すぐさま反転させて、違和感を解消すると良いですが、違和感を持ったまま押し切り閉めますと、ビン本体と蓋がズレたまま固まって、開ける事も閉める事も出来なくなり、ビンが使えなくなる、これが不自由😩であると言う意味ですね。

とは言え、人間型である私達人間では、頭脳ベースの判断、多くの場合「真実や正解など、正しき事を求める」姿勢に埋没していて、「正しい事を求める事のどこがいけないのだ⁉️」と言うこととなりまして、そこに在り方の変更などとは、到底振り返ったりする事には成らない場合が殆どなわけです。
反転しないんですね😅

真実を求める姿勢や、正解を求める気持ちは、それはとても尊い姿勢である事は間違いない事では有るのです。尊い姿勢なのですが、それには往々にして「違和感」「不自由感」が付き纏う事となり、その違和感・不自由感が根底にあるが為に、自分が間違っていないと補強したくなるので、他者への同調を強く求める😠(圧力を掛ける)事に、殆どの場合に流れて行ってしまうのです。

他者へ「正義」をグイッと押し付けて見ても、他者から見た「正義、真実」の裏側は、必ずしも正義や真実とは言えないと言う事は、押し付ける側から押し付けられる側に廻ると、ある程度気がつく事😱も有るかも知れませんね。

そもそも争い、闘いの前提とは、両者がそれぞれに抱く「正義」が根底に有る事は、これまた殆どの場合に言える構図だと思います。自らの立場が正義なのだから、他者とはその反対、悪で有る、と言う決め付けに於いて、その闘争と言う事は始まって行く訳ですね。

全ての人々が、その頭脳の中にどっしりと居座る「正義、真実」を目指して振り返らない頑なさから一旦距離を置いて、顧みた時に自らが不自由で違和感を抱いているや否や、自由自在で違和感を感じずにスーッと在るのか、と言う「頭脳から一旦撤退して力を抜く😌」と言う姿勢に、一時的にでも変化したり差異を持ってみる(シミュレーション)と言うコトの実態を、体験から腑に落とそうと言うのが円真遊戯が語らずとも自ずと進む方向性だったりしています。

頭脳が、自己の中真へその主導権を一旦明け渡すところから、転換を始めて行くのです。
しかし外部性にその明け渡しを行うことは、間が開いて魔が差し憑依される危険に、己れを晒すことになりますから、その実験は取り返しのつかない場合も想定して、やらずに回避するシミュレーションを行うことはお勧めです(要はしちゃ成らぬ🤔!と言う〜)。

大いなるモノへ、一旦全ての頭脳判断を明け渡してみる、するとどうなるか⁉️を体感から確認する、と言うコトをやって行くことになります。他者の存在をお借りして確認していくのですね。

他者と立ち位置を交代交代しつつ、不自由側と自由自在側の役割を入れ替えながら、法則を自身の身体(自神の神態)から教えて貰います。
それにより、自由と不自由を分かつモノとは
自ら=意識の在り方に在り・・と言う明瞭な理解へと段々と進んで行き、如何なる現象に対しても「不動」であること・・柳に風の如く・・大地に根付きつつゆらゆら自在に大風を流す姿の様な不動である姿へ・・

根っことは、生命を支える見えざる働き(お陰様の本質)であり、上の方の葉っぱの自在性とは「現象とは『終わり消えて行く澄まし』であることの理解のこと」だと言えるでしょう。
神と人間の関係ですね・・・☺️

「見える世界以外には存在していない」と言う、目の前の世界への認識が蔓延ることになった近代では、見える存在とは、見えざるナニモノカによって、見える様に仮になっているんだと言う昔の人々の様な見方にはなっていない訳ですから、この目の前に見えている状態のことを『現実』と呼んで、唯一絶対なのが目の前の現実だと、そう言う信念体系に依って来た訳です。

一方の世界観とは、目の前の見えている世界とは、その先手に存在する眼に目えざるナニモノカから到来した、投影像である、だからこれをナニモノカが現れて来た象だから『現象』と呼んで区別したわけです。

と言うことで、目の前の世界に対する認識(世界認識)と言うのが、同じでは無いわけでして、この差異をもたらしているのは、自己存在への認識の違いに由来する、と言う根本に在るんです☺️!

つまり、自分自身のことを肉体=物体だと思っている自己認識か、それとも身体は自己とは別であり、自己とは身体ではなく身体に乗っている心、意識のコトだ、と言う自己認識か、と言う差異ですね。

この差異が、ニホンゴの精神、コトとバの精神と、日本語以外の言語(物質言語)の世界観との差異にそのまま当てはまる、と言うコトをお伝えして来ているわけですが、物質言語(主な外国語)では、人間そのもの(自己と他者)も対象としての物体として扱う訳でして、ニホンゴの精神では、肉体も生命ですが、「見えている空間そのものが生きている」として人生を送って来たと言う差異な訳です。

幼少期には、全世界市民共通のニホンゴの精神なのですが、日本人も含めて現代では、余りにも対象の物体観念が強くて、あたかも目の前の他者も、また自己も、物質物体である、と信じて疑わない様に、自己観念、世界認識がややこしい捩れのままに、それで普通だとされて来てしまっています😩

この自己認識の差異によって、世界認識も変わってしまい、現代に於いては、世界とは「現実」として認識されるに至り、「現象」とは理解されなくなっていった訳です。

この現実と現象との差異を、空間に改めて見直すのには、自己と他者の身体と、意識との連携によって、あー🤔世界って言うのは現象なんだ、現実では無いのですね〜、と再認識のリセットへ切り替えて生きていく、そう言う時局に既に2013年より入っている、と言う話をさせて頂いて来ました。

しかし、その様な解説なり、言説では、いくらそれを聞いたとしても、実際の意識の在り方が、反転して行くと言うことは起き難い事でありまして、やはり能動知性(ヌース)を理解すると言うことは、コトとバの精神を実際に試して見なければ、腑には落ちない仕組みになっている訳です。

思考によって認識を変え、認識を変えたら、それが前とはどう言う差異を持っているのか?を理解の強度を上げるのには、ヌースの立ち現れである「身体=神態」で確認する、そのように構造化されているのもまた、この存在世界、宇宙だよね〜☺️と言うところですね!

とまあ、それで円真遊戯で遊びましょう❣️と言う遊び(能動性の回復)と言う呼び掛けをさせて頂いているわけでして、今の次元ではそれは遊びなんですが、反転した世界ではその遊びの在り方が普通の生き方になってるので、先取りしまーす╰(*´︶`*)╯♡と、こう言う訳もあって、農慈(野宇慈)芸寿告が当たり前で普通の生き方と分かる様に、認識を変えて生き始める、なんて大層なコトまで内容は発展していくのもまた、円真遊戯で進めさせて頂く内容となります。

自由と不自由を分かつモノの確認、その一つに現実と現象の差異の再認識を身体で確認する、と言うお話しでした‼️☺️