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そう言う霊能者、スピリチャルワーカーと呼ばれる凄い人、今は多くいらっしゃると思いますが、宗教家も哲学者も同様に、人々の魂を解放すると称しながら、無自覚に受動をより強化させて、不自由へ陥れてしまっている事が散見されますね。

ご本人達はそのことに対して無自覚で、自らはそれを良かれと信じて行なってる訳ですが、宇宙からすると、逆行しているんじゃないのか?、人類の意識を解放に向けずに依存を強化しているとすれば、これは宇宙的には大変罪が大きいと言うか、良かれと思ってるのに何故か自滅に向かっていると言う構図がある訳です。


そもそも、能動が受動しているのが人間と言う存在様式なわけですから、依存を強めると、もうそこから自縛が強くなって、宇宙としては生命を流動させる方向性ではなく、虚無へ雪崩れ込んでいくのです、構造として。


その様に意識を如何にして本源的な在り方、自由自在へと誘うのか。その様に致しますと、この物質世界だと殆ど、物を得る事が難しいですね、要はオマンマガクエン、と言うことになる。


飯食う事が、人間は喰わないと死んでしまうから食わないと居られない、と言う概念であるとすれば、それを語る人々のその存在様式としては、肉体が、物質が自己である、そう言う認識に其処はある訳ですから、そもそもワンネスだとか、アセンションであるとは、根本的に成立するはずがない構図にいる訳です。


肉体が自己である、と言うベースに於いて語られる全てのものは、必然的に着地点は、これまた物質的な物の充足になっていくのは必然なので、それが例え世界平和ですとか、差別撤廃ですとか・・・勿論それらは尊い思考なのですけども・・・着地点としては結局物質的な在り方になる訳です。


その世界観のベースが、そこから変換され得ない如何なる精神の運動、思想、道徳、哲学、愛、霊、様々に語られる精神性の活動も、無意識の内に、無自覚なままに、人間の在り方、ヌーソロジーで言う人間型ゲシュタルト、に基盤がある訳ですから、それは真の変革や覚醒を全く意味しない訳です。


人間が真の意味で、覚醒すると言うことは、自らの根底が能動知性である事、能動として動き出すことそのものにあるわけです。

その為に先ず、自分と言うのが何処に居るのか?と言う問いを自己に投げかけていく、決してこの肉体ではあり得ないと言う事をよく考えて、では何処に自己は居るのだろう?とそれについての探求が変化のきっかけとなっていくわけです。


ヌーソロジーがその様に各々に投げかけてきた、自己の矛盾した存在様式の認識、肉体だと物質だと思い込んできた、根拠なき思い込みに対して、人類共通で普遍的な科学の知見を以ってして投げ込んで来た訳です。


人間の持つ信仰体系である、科学、それも古典物理学としての唯物還元論と言う信仰体系ですが、その唯物還元論としての物理学、それ自体が、実証実験としての原子の姿を人間の認識に映し出して来た。

これは決して目に見える様な物ではありません。間接的にしか見る事が叶わない。そこがまた微妙なところなのですね。

科学の信仰体系を持って居るのですけども、原子の構造となりますと、目に見えないものですから、その信仰体系に基づいた認識を何故か見て見ぬ振りをし始める。


これは実に面白いと言うか奇妙な事なのですが、唯物還元論を信じて居るのにも関わらず、原子の構造については見ないふりをするんですね、強烈な偏りを持っている。


ですから、唯物還元論者は、原子は丸い粒である、と言う既に成り立たない捉え方を頑として譲らずに、古典物理学時代の先端科学が見つけた物質の知見である、原子の構造はほぼ真空なのだと言う事を、古典物理学の信奉者達が自ら放棄して、知らんぷりをして、検証データにもない、実験にも基づかない「丸い粒」と言う仮定をさもそれがあるかの様に振舞って、技術の応用にのみ目を向けて、それ以降は科学的な物質の真相を見ようとはしません。


真の意味でこれは宗教的であって、全く科学的な態度ではあり得ません。この矛盾撞着の構造を持った思想、思想と言うよりは信仰なのですが、これがその後地球を席巻したわけです。一般の人々もこぞってこの古典物理学的な信仰体系を持って現代の生活をして居ます。


そこにまた不思議な事ですが、現代のハイテクに益々侵食される社会には、実際のところ古典物理学ではなく、量子力学に基づいた技術に依って成立発展を見ているのです。

それはコンピュータテクノロジーであり、また核物理学でもあり、一般の市民から科学者達でも、この二つのテクノロジーに関わらずに、近代化を為した国々の生活は行うことはない訳ですから、それほど量子力学が身近なところに溢れた中で生きているのが現状な訳です。


(続く)