美しい日本の恋 ~やまとなでしこ恋愛考~

美しい日本の恋 ~やまとなでしこ恋愛考~

日本文化を彩る女性美と恋愛を考える

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近現代は、それまで歴史の影に隠れていた女性たちを表舞台へと向かわせる時代です。



その個性や才能を開花させて、さまざまな分野で活躍を見せてゆくのです。

江戸幕府を倒した幕末の志士を支えたのは、実は芸妓などでした。

維新三傑の一人、桂小五郎(後の木戸孝允)の正妻松子は、元芸妓・幾松でした。

桂が命の危険に晒されていた最も困難な時代に彼を庇護し、必死に支えつづけたことで有名です。

 

明治初年、新政府は欧米の諸制度を視察するため、岩倉具視率いる使節団を海外へ派遣しました。

その中には女性の留学生として、後に津田塾大学を創立する津田梅子がいました。

この時、梅子はまだ八歳という若さでした。

 

明治十年代より、国会の開設などを政府に求める自由民権運動が起こります。

この時期、女工と呼ばれる貧しい女性労働者が安い賃金で長時間働かされ、多くの若い女性が体を壊して亡くなっていきました。明治期の女性像を語る上で、この女工哀史は欠かすことはできません。

そんな彼女たちの犠牲のもとで、日本は日清戦争前後に産業革命を迎えます。

その後、日露戦争に勝利し、欧米列強に肩を並べる存在となりましたが、軍国的な風潮が高まる中、歌人・与謝野晶子は、

 

君死にたまふことなかれ

 

という時局を詠んで話題となりました。

※一方で与謝野晶子には戦意高揚歌もあります。

 

明治中期以降には、この与謝野晶子をはじめ、樋口一葉の文壇進出、また芸能の分野では川上貞奴、松井須磨子らが活躍し、女性の芸術面での才能も開花してゆきます。

 

大正時代になると、民主主義的風潮が広まってゆきます。

それまで声を上げてこなかった労働者や小作人たちが団結するようになり、そうした世相の中で平塚らいてうが新婦人協会を結成します。明治末年に女性文芸誌『青踏』を創刊し、以降、女性の地位向上のために積極的な活動を展開してゆきました。

この頃、職業婦人という今で言うOLの走りとなる女性たちが登場します。

電話交換手、タイピストなどの事務系の仕事に携わる者、バスガイド、デパートガール、エレベーターガールなどの仕事につく者など、女性ならではの職種がさまざまに誕生しました。モガと称される洋装に身を包んだモダンガールが街を闊歩するのも、この時代の特色でした。オペラ歌手・三浦環がロンドンで『蝶々夫人』に出演し、世界的な名声を受けたのもこの大正時代のことです。

 

しかし、昭和に入る急速に軍国主義のムードが国中を支配するようになり、日本はやがて満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと、十数年にもわたる戦争に突入し、女性たちは愛する人を失う悲しみを経験するのです。

敗戦を迎えて戦後社会へと入った日本は、すっかり自信を失うのでしたが、そんな世の中に元気を与えたのが女性たちの歌声でした。

昭和二十年に発表された並木路子の歌う「リンゴの唄」は、日本人へ希望のそよ風を届けました。

この時、並木路子は戦争で父と次兄、東京大空襲で母を亡くしていましたが、それでも歌声の力によって、敗戦に打ちひしがれていた国民を大いに励ましたのです。

また、映画の分野では、田中絹代や原節子といった女優が国際的に評価を受けることで、世界に日本人女性の美を知らしめたのです。

 

昭和二十一年、その年の衆議院選挙で、三十九人もの女性代議士が誕生し、政治の分野にも女性が進出し始めました。

また戦後の民主主義教育によって男女平等の考え方が広く社会に浸透するようになり、さまざまな分野で男女が平等に渡り合える時代が到来します。やがて昭和六十年に男女雇用機会均等法が成立。

以来、女性の社会進出が促進されてゆくようになりました。

 

幕末、明治、大正、昭和戦前、戦後と、この近現代は激動の時代でありました。

やはり、その激動の背景には多くの戦争があり、日本という国家が敗戦を経たという事実が重くのしかかっています。

その事実は今もって、平成の世に色濃く影を落しているのです。

これまでの時代にも、戦争というものはありました。

しかし、それはすべて国がひとつになっていくための内戦なのでしたが、この時代に入って、日本は国家の命運を賭けた外戦で負けてしまうのです。

この敗戦後、日本はアメリカの占領政策を受ける形で、新しい自国の在り方を問わなければなりませんでした。

戦後改革の名のもと、連合国軍最高司令官総司令部(GHQあるいは進駐軍)によって命じられた五大改革指令とは次のようなものでした。

 

1.秘密警察の廃止

2.労働組合の結成奨励

3.婦人解放

4.学校教育の自由化

5.経済の民主化

 

戦後になって、国家と女性の関係、女性のあり方に関する意識はそれまでとどう変わったのでしょうか。

戦前戦後と女性の参政権獲得をめぐって活動を展開した女性運動家に市川房枝がいます。

市川房枝は「満州事変」については「戦争反対」を唱えますが、日中戦争が始まると婦人時局研究会を結成して戦時体制に協力していきます。そして戦後になると「平和と民主主義」のための婦人参政権を主張しました。

現在ではその変質について疑義が呈される評価の多い市川房枝ですが、この時を境にして、彼女には何が変わり、何が変わらなかったのかを考えることは重要です。

 

昭和二十年(1945年)、市川は戦前からの女性運動の指導者を中心に戦後対策婦人委員会を結成します。

これは「敗戦」という国家の課題に女性の立場から対応しようとするもので、「アメリカから与えられるより前に」と、日本政府に対し参政権を要求するのでした。

この年の11月、市川房枝は参政権運動のための新しい団体として新日本婦人同盟を結成します。

「勤労無産大衆婦人の立場に立ち」、「封建的な鉄鎖」と「金権的な支配」から女性を解放し、民主主義と平和を確立するための参政権の行使を目指しました。「政治と台所」という戦前からのスローガンを変えることなく、主婦としての女性の政治参加の意義を強調するもにでした。

 

昭和ニ十一年第1回総選挙にて、市川は立候補せず他の女性候補者支援の立場に廻りますが、この年三十九人の女性代議士が誕生します。しかし、その翌年、市川は言論報国会理事として戦争協力を行ったことを理由に公職追放になってしまいます。

その解除の訴願文書の中で彼女は、

 

「国民の一人としてある程度協力せざるを得なかった」

 

と自戒を込めて主張しています。

市川房枝の戦前戦後を通して一貫してみられるのは、如何に国家の課題に答えるかという発想です。

その背景にあるのは国家への帰属意識であり、国家の担い手として認められることが男女の平等、女性の解放につながるという認識なのです。この市川房枝の認識には、女性として、主婦として、愛する人を奪われてしまう戦争は傷ましく避けたいものだが、日本という国を愛する国民の一人である以上、避けがたい国難には参加しなければならないという責任が見えてきます。この域においては、もはや男女の性差はないものと思われます。

 

市川房枝は運動家、政治家として活躍しましたが、彼女の生涯をかけての活動はむしろ社会教育的な側面が大きかったように思われます。愛知県女子師範学校在学中に良妻賢母教育に反対して同級生と授業ボイコットをしたという逸話は、後の婦人運動家としての活動を予感させるものですが、この時すでに彼女には「女は良妻賢母たる前に一人の人間たるべき」という考えが芽生えていたことと思います。また彼女のスローガンである「政治と台所」という考え方はひじょうに重要です。

つまり「政治」と「台所」は対等にあるべきとの考え方で、これは男女の性差ではなく、男女の役割として捉える見方があります。市川にはつねに生活の側から政治を見るという主婦の視点があります。

この「主婦の視点」というのはそのまま「台所」に直結するもので、ここには男女の性差の不平等が訴えられているのではなく、男女の役割の均等評価が求められているのです。これは江戸幕府の「老中と大奥」の関係に似ており、大奥が老中と匹敵する権力を握っていた政治的バランスを彷彿とさせます。真の女性解放とは、性による差別を訴えるというものなのではなく、男女差による役割について明確な評価を与えるということなのだと思います。

昨今は、女性の社会進出をめぐる機運に世相が高まってきているともいえるでしょう。

私たちの今後の社会に、ひいては今後の日本のために、男性と女性が共にどうあるべきかを考えるうえで、この女性進出の歴史を知ることは重要であると思います。