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ねずさんのブログよりの転載です。

飴を買う幽霊 - ねずさんのひとりごと (nezu3344.com)

 

飴を買う幽霊は、日本人の母子の愛を描いた短編です。
けれどその短編の中に、日本的精神の神髄があるように思います。
そんな日本を取り戻す。
それこそが、神々の御意思であるのかもしれません。

 

子供を背負う母親 F.ベアト

 

上の写真は、前にご紹介した江戸から明治にかけての日本の写真を撮り続けた英国人写真家 F.ベアトの写真です。「子供を背負う母親」と題されています。
写真のお子さんは、紋付きの晴れ着姿です。
祝い事のときのお写真なのでしょう。
母親も長着に羽織で、ちょぴり誇らしげです。

なんだかこの写真、じっと眺めていると、すごく幸せな気持ちになってしまうのですが、いまも昔も変わらないのが、母のやさしさ、暖かさ、母の愛情です。
母に心からの愛を注がれて育った子は、やはり愛情深く、しっかりと母親を守る子に育つといいます。
なぜなら愛情は連鎖するものだからです。
子殺しなどが起こる現代日本よりも、昔の日本のほうが、もしかしたらいまよりもっともっと愛情豊かな国だったのかもしれません。

そういえば、先日ご紹介したイザベラ・バードの本にも、こんな文章がありました。
もちろん日本のことです。
「私は、これほど自分の子どもを
 かわいがる人々を見たことがない。
 子どもを抱いたり、背負ったり、
 歩くときには手をとり、
 子どもの遊戯をじっと見ていたり、
 参加したり、
 いつも新しい玩具をくれてやり、
 遠足や祭りに連れて行く。
 子どもがいないと
 いつもつまらなそうである。」

昔はお寺の門前坂というと、たいてい飴(あめ)屋さんがあったものです。
その飴屋さんに、閉店間際、ひとりの哀しげな女性が飴を買いに来ました。
1文(もん)で、アメ1個の時代です。
女性は毎日アメを買いにきました。
6日目の夜、女性は、
「これでもう銭がありません。
 今夜が最後です。
 もう来られなくなります。」

と、寂しそうに一文銭を置いて店を出て行きました。

どうしたのだろう・・・
不思議に思った主人は、こっそりと後をつけました。
すると女性はお寺の境内を抜け、墓地に入って行くと、埋葬されたばかりの新しい墓の前でふっと消えてしまいました。

(これはなにかあるに違いない。)
そう思った飴屋の主人は、翌朝、お寺の住職や役人に立ち会ってもらって、墓を掘り返してみました。
すると棺の中で、女性の亡骸にしっかりと抱かれた元気な男の赤ん坊が飴をしゃぶっていました。
亡くなった妊婦が埋葬後に赤ん坊を産んでいたのです。
棺の中に入れておいた六文の銭は使い果たされて無くなっていました。

昔は、埋葬時に6文の銭を棺に入れたのです。
これは六道銭といって三途の川の渡り賃です。

若い母親が、幽霊になってまで我が子を案じ、飴を買うという話はとても感動的ですが、このお話は、小泉八雲の「怪談」で紹介されている「飴を買う幽霊」というお話です。
小泉八雲といえば、有名なのが「耳なし芳一」「むじな」「ろくろ首」「雪女」等々の作品があります。
これらのお話は、「怪談」という本にまとめられ、流暢な文章に載せて全世界に紹介されました。

小泉八雲は、ギリシャ生まれのアイルランド人作家です。
彼は、深く日本を愛し、日本人の持つ深い精神性を持った民話を、英文の小説にまとめて、ついには日本に帰化して日本人となった方です。

 

小泉八雲と妻の小泉セツ

 

ある方が、次のような投稿をしてくだいました。

 靖国神社のとなりに、
 みなさんもよくご存知の
 遊就館があります。
 遊就館では、
 数多くの英霊の方々が
 残された遺品を見学できます。

 なかでも私の印象に残ったのは、
 中国から日本の家族へ送られた葉書です。
 この葉書には、
 日本に残した家族への
 想いが綴られています。

 私が考えたのは、
「はて?
 戦後、我々が受けてきた教育では、
 兵士たちは、戦陣訓や軍人勅諭などにより、
 “お国のために命を捧げろ!と国に教育された!”
 と教えられた。
 あたかも洗脳された狂気の人々のように教えられた。

 しかし、はたして何者かに洗脳され自我を失ったような人間が、
 『遠い家族を想った心温かい手紙』など書くのだろうか?
 今でいえば新興宗教に洗脳された信者は、
 離れた家族に心温かい手紙をみんな書いているのだろうか?
 ということです。

 一言で「国を守る」というけど、
 もっと具体的に言えば
 父を、母を、兄弟を、姉妹を、子供を、友を、
 恩人を、恋人を、さらに生まれ育った町、山、川、海を守る。
 それが叶うなら自分ひとりの命が散ろうとも、
 それも結構じゃないか。
 というような気持ちだったんじゃないかなぁ
 と感じました。

 「死」が怖くないわけじゃない。
 だけど自分が生き残って、
 自分が守りたい人々を
 守りきれなかったことのほうが、
 もっと怖い。

 そんな気持ちを、
 今の自分に重ねたら
「売国勢力」への抗議活動や
 知識を深めようと勉強するのも結局、
 「自分の守りたい人々や故郷」を守るためなんだな・・・
 なんて想いました。

靖国神社の遊就館、江田島の海軍兵学校、知覧の特攻記念館などに行くと、戦時中に亡くなられた日本の将兵たちの手紙を見ることができます。
そこには、父母への感謝、我が子への心配り、恩師への感謝、妻や恋人への熱い想いが、一文字、一文字、ものすごく丁寧な字で書かれているのを見ることができます。

半分も見ないうちに、もうボロボロに泣いてしまいます。
ときどきね、その文字のインクがにじんでいるものもあります。
そういう手紙はきっと、書きながら、亡くなられた兵隊さんも泣いていたんだなぁと感じます。
涙をポロポロ流して、その涙が手紙の文字のインクの上に落ちたものだとわかるんです。
そりゃあね、見たら泣けますよ。
泣かない奴なんて、そんな奴は、人間じゃないと思います。

「戦前は命が非常に軽かった」などと、わけ知り顔で言う人がいます。
とんでもないと思います。
いまも昔も、人は人です。
血流せば、痛みも感じます。
誰だって命は惜しいです。
あたりまえのことです。

しかし、
「自分が生き残って、
 自分が守りたい人々を
 守りきれなかったなら・・・」
そんなのは絶対につらいです。
絶対に嫌です。

愛する人を守るために、愛する人を守りたいから、自分にとってかけがえのない人たちだから。
だから何があっても守り抜きたい。
だからこそ、230万の英霊たちは、祖国に命を捧げ、散っていかれた。そう思います。

父母兄弟や子や、孫や、恋人や妻が生きる明日の未来を信じて。
日本は戦後、経済的にはものすごく発展することができました。
普通に働いてさえいさえすれば、世界中のおいしいものだって食べれるようになった。
最近のお米なんて、むかし子供のころ食べていた配給米などと比べると、めちゃめちゃ贅沢でおいしいです。
でもね、飽食の時代に生まれたからといって、残され、生かされた自分たちが、自分たちを守って散って行かれた英霊たちへの恩をわすれ、感謝せず、親兄弟や子や孫を守るという意志を持たないというのはいかがなものか。

小泉八雲は、1894(明治27)年に、熊本で「極東の将来」と題する講演を行っています。
そこで小泉八雲は、次のように述べています。

 ***

 諸君は動物学で、
 絶滅した動物について
 読んだことがあるであろう。

 かつて、
 敵を恐れる必要がないほど強く、
 また暑さ・寒さ・干ばつなどによって
 滅ぼされることのないほど恵まれた、
 驚くべき動物がこの地球上に存在した。

 この中には、
 ただ生存価格が高くつくだけのために
 消滅したものがいたことは確かである。

 地球が彼等を養えない時が来たのである。
 それで肉体だけに関する限り、
 人間も動物と同じような運命を辿るだろう。
 生活費が余りにも高いというだけの理由で、
 滅亡する民族が出てくる可能性がある。

 私は日本の貧困は
 その強みであるという
 固い信念をあえて述べたい。
 裕福は将来、
 弱体化する原因になりうる。
 日本の場合には、
 危険性があると考える。
 古来からの、
 簡素な、健全な、自然な、節度ある、誠実な
 生活方法を捨て去る危険性がある。

 私は日本がその質素さを保ち続ける間は強いが、
 もし舶来の贅沢志向を取り入れるとすれば
 衰退して行くと考える。

 極東の賢人である孔子、孟子、ブッダは
 誰も皆、
「贅沢を避けて、
 ごく普通の楽しみと
 知的娯楽に必要なもので満足することこそ、
 民の強さと幸せのために重要である」と説いた。

 将来、日本が偉大な国になるかどうかは、
 すなわち素朴、善良、質素なものを愛して、
 生活での無用な贅沢と浪費を嫌悪する心を、
 いかにして持ち続けるかどうかに
 かかっているのだと申し上げたい。 

現代日本は、飽食の時代にあるといわれて久しいです。
食べ物が豊かであるということは、決して悪いことではない。
しかし、豊かであることに埋没し、日本がその精神性を失うことは、種の絶滅を促すと、八雲は警告しているのです。
日本は精神性を失ってはならない。
そう思います。

日本は、1995年を境に経済がマイナス成長になりました。
いまは2018年。
だから、
 「失われた20年」
 「出口の見えない不況」
と言われます。

決して不況を歓迎するわけではありません。
ただ、古事記を学ぶと、苦しいことや辛いこと、良くないことがあるとき、
それを乗り越えた先に、
もっと、とてつもなく大きな幸せが待っていることを教えられます。

たとえば天の石屋戸です。
天照大御神が岩屋戸にお隠れになれる。
高天原も中つ国も、闇に閉ざされる。
けれど、それによって八百万の神々が目覚め、
権威と権力を分離する「シラス」統治が始まり、
これによって、民こそが「おほみたから」という、民衆がもっとも愛される国柄が生まれています。
つまり、暗闇は、そのための試練だったのです。

豊かさには二通りあるように思います。
愛を失った富と、
愛を根本とした富です。

もしかすると日本は、後者を実現するために、世界でただ一国、この20年の経済をマイナス成長させたのかもしれません。
どんなに頑張っても出口の見えない不況。
それはまるで、公家や武士たちの誰もが平和な社会を願いながら、戦乱の時代を迎えた平安末期から鎌倉初期の時代にも似ています。
あのときには、その後に元寇がありました。
日本は、戦乱の時代を経験することで、元と高麗の大軍を押し返すことができました。

飴を買う幽霊は、日本人の母子の愛を描いた短編です。
けれどその短編の中に、日本的精神の神髄があるように思います。
そんな日本を取り戻す。
それこそが、神々の御意思であるのかもしれません。

 

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