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国際派日本人養成講座よりの転載です。

No.1240 ブラジル日系移民に学ぶ「日本の心」(下): 国際派日本人養成講座 (jog-net.jp)

 

 ブラジルで幾多の苦難を乗り越えて、今日の尊敬される地位を築いた日系人は、「日本の心」のパワーを実証してくれた。

 

■1.「日本の心を伝えるのは日本語より他には有り得ません」

 ブラジルの日系二世・村崎道徳さんのお母様は、「日本にも月があるか」と聞かれるほどの「文化の違いの中にあなた達を投げ込むのが本当に悲しい」と思い、村崎さん兄妹に「全情熱を傾けて日本人に育てるぞと覚悟を決め」ました。そして近くの日本人の子供たち二十人くらいを呼び集め、家の一部屋を開放して学校を始めたのです。ここで村崎さんはこう言われます。

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如何に日本の心を伝えるか、日本の方は実感が分からないと思いますが、外国で生きるとき日本の心を伝えるのは日本語より他には有り得ません。[村崎]
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 この村崎さんのお母様と同様に、日系の子供たちに日本語を通じて日本の心を伝えたのが、川村真倫子(まりこ)先生でした。


■2.奇跡的に救われた命

 川村先生は1928(昭和3)年、サンパウロ州で二世として生まれました。父親は三重県桑名市で大豆や小豆を商う店を開いていましたが、店を妻の弟に預けて、ブラジルに渡ったのです。1941(昭和16)年3月、小学校卒業を期に、川村先生は母親に連れられて、一旦、故郷に戻ります。82歳になる祖母の世話をするためでした。

 その年の12月に大東亜戦争が始まり、1年のつもりで日本に来ていたのに、ブラジルに帰る道が閉ざされてしまいました。そのまま日本で中学校から高校へと通い、戦争末期には四日市の軍需工場で学徒動員として働いていましたが、空襲が定期的にやって来るようになったのです。

 ある時、空襲警報が鳴り響いて、いつも訓練の時に飛び込んでいた防空壕に入ろうとした時、なぜか「入ってはいけない」という胸騒ぎがして、とっさに遠くの別の防空壕に飛び込びました。空襲が終わり表に出ると、いつもの防空壕は直撃弾を受けて、あたりにはちぎれた手足が散らばっていました。ここに逃げ込んでいたら、命はなかったのです。

 その時、一筋の光が心の中に差し込んだような気がしました。奇跡的に救われた命は、もしかしたら、この悲惨な現実を繰り返さないために、後世へ伝えよ、と神様が残してくれたものではないだろうか。これが教師の道を志したきっかけとなったのです。

 川村先生はそのまま日本に留まって、女学校、次いで三重師範学校女子部を卒業し、3年間三重県内の中学校で教えましたた。昭和27(1952)年に、日本とブラジルの国交が回復し、ようやくブラジルに戻れました。


■3.「優しさ、和やかさ、繊細さ、そういった美しい日本の心を伝えていきたい」

 当時、ブラジルには40万人の日本人が住んでいました。その半数以上が日系2世で、言葉を覚える大切な時期に日本語教育が禁止されていたため、日本語を話せない人が増えていたのです。

 かつて学んだ日本語学校「大正小学校」の恩師を帰国報告に訪ねた時、「別の場所に赴任することになったので、今までやっていた日本語学校塾の生徒を預かってくれないか」と頼まれました。川村先生は喜んで引き受けました。

 1953(昭和28)年、川村先生は実家の居間で日本語教育を始めました。その時、ひとつ心に決めていたことがありました。日本語の奥に秘められた優しさ、和やかさ、繊細さ、そういった美しい日本の心を伝えていきたい。堅苦しい日本語の文法は後回しにしてでも、日本語に触れる感動や喜びに満ち満ちた授業にしようと、決意していたのです。

 そこで、戦前の国語教科書を使い始めました。たとえば、そこにはこんな一節がありました。

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「あさのひかり、おはよう! おはよう! みんなともだち」

 ・・・言葉を覚えながら、太陽の輝きや木々のたたずまい、水の流れを感じ、その生命と交わす挨拶を覚え、人と仲良くすることを覚える。日本の国語の教科書は、人生の生命そのものなのです。[川村, p27]
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川村先生創立の大志万学園、サンパウロ、同校HPより

 

■4.「今日、分かったよ。日本人の神様は大自然なんだね」

「あさのひかり、おはよう! おはよう! みんなともだち」には、太陽も、山も、木々も、鳥たちも、すべてのものが一緒に朝を迎える「ともだち」という自然観が息づいています。こういう言葉を習っているうちに、日本人の祖先が抱いていた自然観が身についていくのでしょう。

 川村先生は教育課程の一部として日本研修をします。ある時、伊勢の神宮を早朝参拝した帰り道に、鬱蒼(うっそう)と茂る杉の間から、霧の間を通って一条の光が差し込んできました。まさに天から降りてきた光の筋で、子どもたちもその光に驚きました。その晩の反省会で、一人の生徒がこう言ったそうです。

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「今日、分かったよ。日本人の神様は大自然なんだね。日本の神様は大宇宙なんだ。そして、日本人はすっぽり恵みの中に入っている。日本の神様はすごい神様なんだ」[川村, p125]
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 川村先生はこの発言に驚きました。彼らは一神教であるカトリックを信仰していますが、もの言わない自然が自分たちに語りかけてくる言葉を聞き取ったのです。

 川村先生は「どんな物にも、どんな道具にも、神様が宿っているから大切に」と教えていましたが、カトリックで神様は一人と教わってきた彼らには意味が分かりませんでした。それが、この時の経験から「自然すべてが神様なのだ」と感じることができたといいます。


■5.家族や同胞に対する感謝や思いやり

 すべてが一緒に生かされている「ともだち」と感じるこころは、当然、もっとも近しいいのちである家族や同胞に対する感謝や思いやりのこころに繋がります。

 子供たちの教育にも、親は献身的に務めました。ある母親は三人姉妹を川村先生の二年に一度の日本研修に、一人ずつ日本に送るために、6年間も単身日本に出稼ぎに行って資金を貯めたのです。本当はブラジルで子供たちと一緒に暮らしたい、しかし、それ以上に娘たちに母国の美しさを見せなければ、という気持ちで働いてたのです。

 そういう親の子を思う気持ちは、当然子供にも伝わります。中川ヒロコ・イベッチさんは、学校で一生懸命勉強した理由を、こう語っています。
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家族の名誉を苗字の重みに感じている。母は小学3年、父は4年までしか行かなかった。彼らは学歴でバカにされたから、私たちの教育は彼らにとってとても重要なものだった。私たちは、両親が大事だったから、その期待に応えようと勉強した。
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 多くの日系人子弟が、こういう気持ちで勉強しているのでしょう。ブラジルの小学生のルーツ別の算数成績では、日系が断然1位で、他の民族を1年分ほども引き離しています。また名門サンパウロ大学では、日系人の学生が9.5%もいます。人口比では1%弱ですので、人口あたりでは10倍もの進学率となります。

 当初、マラリアで倒れた人々が多かったために、1926年には日系移民のいのちと健康を護るために「同仁会」という組織が作られ、医師や有志の活動家が巡回診療を始めました。そこから今日では、サンタクルス日本病院という近代的な大病院に発展しています。

 また、ブラジルでは、「ジャポネース・ガランチード(日本人は保証付き)」という言葉があります。別に保証人などいなくとも、日本人というだけで信用できるという意味です。家族や同胞への思いやりをもっていれば、ビジネスなどで何か不祥事を起こすことは、日系人社会に大きな迷惑をかける、と感じるからでしょう。


■6.「あなたの生命をもらって今生きているよ」

 生徒たちが日本研修で特に深い印象を持つのは、靖国神社の遊就館や、海軍兵学校のあった広島湾・江田島の教育参考館で見る特攻隊員の遺書・遺品だそうです。ある生徒はこんな感想文を書いています。

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 げんしゅくな気持ち ナタリア・恵美・浅村(17才)

 2002年12月に、私は第13回使節団として、日本に行きました。あそこで、沖縄や広島でおこったせんそうの事を見ました。原爆資料館や江田島や靖国神社で、いろんなお話を聞きました。

 そしてせんそうの意味が深く分かりました。戦争がなかったら、人々はしななくてよかったのに。戦争というものはすごく苦しいものです。

 けれど、私がもっとおどろいた事は、戦争にいった人達のすばらしい気持ちだった。あなた方は自分の国日本をまもるために、そして自分の家族の命をまもるために、自分の命をかけました。あなた達は敵にふくしゅうをする気持ちより、自分の国の誇りをまもるための「死ぬこと」をえらびましたね。私はそれは本当にげんしゅくな気持ちであると思います。

 私は江田島でこんなメッセージを見ました。「正道一心」という書でした。だれかが弟のために自分の血で書いたものでした。女の子は自分のかみの毛で、「日本」と書きました。それは私の心にふかい感動をおこさせました。

 皆様、戦争で日本はまけた。でも、あなた方の命はむだにはならなかった。だって、今、私達も、日本の人も幸せ一杯でしょう。だから、あなた方はなくなったけれど、その気持ちは、いろんな人達に大切なことを教えました。

 あなた方のために、今、私は一生けんめい祈ります。そして、あなたの生命をもらって今生きているよ。
 本当にありがとうございました。日本の人、靖国神社を大切にしてください。おねがいします。
 なくなった人達に誇りをもって下さい。おねがいします。[川村編,p36]
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 前節で、「あさのひかり、おはよう! おはよう! みんなともだち」と万物を同胞と思う心が、家族や共同体への思いやりに繋がっていることをお話ししましたが、生徒たちはその思いやりの気持ちから、特攻隊員の心に繋がることができるのです。

 同胞の「いのち」が外力で脅かされた時には、それを護るために自分の「いのち」を捧げようとする心、それは家族や同胞への思いやりの究極の姿なのです。それは親が自分のいのちに換えても、子供のいのちを護ろうとするのと同じです。そこには敵に対する憎しみはありません。


■7.「日本移民は日本国がブラジル国に与えた最大の『プレゼント』です」

 かつて、上皇上皇后両陛下がブラジルを訪問された時のサンパウロ州知事、故マリオ・コーバス氏が歓迎の挨拶で、「日本移民は日本国がブラジル国に与えた最大の『プレゼント』です」と語ったことがありました。

 近代国家として発展するには、国民が勤勉誠実に働き、互いに信用できなければなりません。ブラジルにおいては、日系人がそのお手本を身をもって示しているということでしょう。

 私自身が務めていた企業はブラジルに3つの工場を持っていました。サンパウロに近い2つの工場は日本人駐在員が管理していましたが、最も奥地にある工場は日系人の幹部数人に任せていました。技術的には日本人駐在員の方が詳しいはずですが、工場としてのパフォーマンスは、日系人が管理する奥地の工場がもっとも優秀でした。

 現地の言葉で自由に意思疎通ができる、とか、現地の労務習慣に通じている、という有利な面はありますが、それだけではなく、現地人皆から「ジャポネース・ガランチード」との信頼を受けて工場を引っ張っているのが印象的でした。


■8.ブラジル日系人こそ「国際派日本人」のお手本

 ブラジルの日系人の足跡は二つの事を我々に示してくれています。

 第一に、ブラジルの日系人が、日本の心を「根っこ」としてそこからエネルギーを得て苦難を乗り越え、その過程でまた「根っこ」をいっそう太く深く伸ばした事です。これは防衛、経済、少子高齢化など多くの苦難に直面している日本国内の日本人にも、歩むべき方向を指し示してくれています。我々は我々自身の「根っこ」の力によって、苦難を乗り越えていけるのです。

 我々自身の苦難を乗り越えるのに、我々が別人になる必要はありません。逆に、現在は我々自身の「根っこ」を忘れているからこそ、なかなか苦難を乗り越えることができないのではないでしょうか。

 第二に、日本人の「根っこ」は、ブラジルという異境の大地においても、しっかりと太い根を伸ばし、立派な幹を育て、美しい花を咲かせたことです。その事によってブラジル国にも重要な貢献をしています。

 この事実は、日本人の「根っこ」が世界に通用する普遍性を持っていることを示しています。否応なく、グローバル化されつつある国際社会で、我々は我々自身の「根っこ」に頼ればよいのです。

 川村先生は「日本語には、よき地球人として生きる智恵のすべてがある」と言われています。そして「この日本語に触れ、慣れていくうちに、非日系の子どもたちまでが、少しずつ内面から変化していくのです」と言われています。

 日本の心をしっかり持って国際社会で活躍する人を、弊誌は「国際派日本人」と呼んでいます。日系ブラジル人こそ、「国際派日本人」のお手本なのです。地球の裏側で苦難に耐えながらも、日本の心を深め、それが国際社会にも貢献しうることを実証してくれたブラジルの日系の皆さんに深い謝意と敬意を表したいと思います。

 

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