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国際派日本人養成講座よりの転載です。

No.1239 ブラジル日系移民に学ぶ「日本のこころ」(上): 国際派日本人養成講座 (jog-net.jp)

 

■1.ブラジル日系移民は「国際派日本人」のお手本

「日本移民は日本国がブラジル国に与えた最大の『プレゼント』です」とは、上皇上皇后両陛下がかつてブラジルを訪問された時に、当時のサンパウロ州知事、故マリオ・コーバス氏が、歓迎の挨拶で述べられた言葉だそうです。

 弊誌は今まで何度もブラジル日系移民が豊かな「日本のこころ」をもって、ブラジル国に多大な貢献をなしている様をご紹介してきました。日本の文化伝統を「根っこ」として国際社会に活躍できる人を弊誌では「国際派日本人」と呼んでいますが、ブラジル日系移民こそ、そのお手本なのです。

 日系ブラジル移民の人々は、大変な苦労を重ねて今日の尊敬される地位を築いてきたのですが、その足跡は今後の国際社会に生きる日本人に重要な示唆を与えてくれます。本号と次号では、その足跡を振り返ってみましょう。


■2.「父母や弟妹を楽にさせてやりたい」

 まずは、ある移民一家の物語から、日系移民の人々が異国の地で、どのような苦労を重ねてきたのか、偲びたいと思います。

 野村峯夫17歳が、弟・繁行16歳とともに、移民船に乗り込んだのは、大正2(1913)年8月のことでした。

 兄弟は広島県安芸郡仁保村(現・広島市)の小作農家に生まれました。父母と6人の弟妹で、一生懸命田畑を耕しても、食べていくのが精一杯でした。そこに「ブラジル移民」の話を聞いたのです。ブラジルにはアメリカのような日本人排斥もなく、土地も肥沃で日本の日雇い労働者の2倍も稼げるという触れ込みでした。

 ブラジルで数年働いて、札束を持ち帰り、父母や弟妹を楽にさせてやりたいという「出稼ぎ」のつもりでした。移民船には、こういう人々が527家族、1937人も乗り込んでいたのです。

 船は2ヶ月もかかって、インド洋を横切りアフリカの喜望峰を回って、ブラジル・サンパウロ近くのサントス港に着きました。そこから10数時間も列車に揺られて、北西300キロほどの内陸部にあるコーヒー農園に連れて行かれました。

 何十万本ものコーヒー樹の並ぶ広大な農園で、農場主はレンガ造りのヨーロッパ風の大邸宅に住んでいます。そんな農園の一角に並んだ粗末な小屋の一つをあてがわれました。午前4時の鐘で起床し、2回の休憩時間以外は、日没まで雑草取りで働きづめです。最初の給料は、農場の売店で買った食糧や日用品の値段が差し引かれて、赤字でした。

 

コーヒーを収穫する日本人移民、

 

■3.「こんなところまできて、ぼろきれのようになって死んで・・・」

 これではいくら働いても、金は貯まりません。兄弟は、130キロほども奥地のリオ・グランデ河流域の低湿地帯で日本人が米作を始めているという話を聞いて、そちらに移ろうと決心しました。米作りなら自信があります。

 兄弟はリオ・グランデ河が目前を流れるなだらかな傾斜地を借り、自分たちが寝泊まりする小屋作りから始めました。それから大人の背丈ほども伸びた雑草を鎌で刈り、田畑を作ります。照りつける太陽のもとで滝のように汗が流れましたが、物心ついた時から体で覚えた米作りを思うままにできるのは、喜びでした。やがて稲は順調に伸びて、穂が黄金色に輝きました。

 そのうち広島の同じ村から来た一家が隣に住み着きました。夫と妻と幼児、それに妻の妹の4人家族で、男手が一人しかいません。兄弟は見かねて畑仕事の手伝いを申し出ました。「支払う労賃の余裕はないけ」という夫に、峯夫は言いました。

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そんなもんは心配せんでもいい。同じ村からこんなブラジルまで来ているのも何かの縁じゃ。わしらもブラジルに来た時は何もわからんで、広島の人にいろいろ世話になったけ、今度はわしらの番じゃ。
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 こうして助け合って、何とか自分たちの食べる米は確保できました。やがて、もっと土質の良い、日系移民も多く入植している川中島に移ったのですが、低湿地帯で蚊によるマラリアが蔓延し、多くの移民が倒れていきました。

 峯夫らは島を離れることにしました。小舟でリオ・グランデ河にこぎ出すと、立ち並んだ日系移民の名前を刻んだだけの墓標を見て、峯夫はこうつぶやきました。

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 こんなところまできて、ぼろきれのようになって死んで・・・。野たれ死に同然じゃ。どんなに無念なことじゃったか。こんな島じゃ、だれも墓に詣でてくれる人間もおらんじゃろう。待っていてくだせえ。いつか、必ずあんた方が安らかに眠れるような墓を作らせていただきますよ。
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■4.24年ぶりの帰郷

 峯夫らは、東に50キロほどの場所に移りました。このあたりも米作の有望地で、入植した日本人移民は千五百人にも上っていました。

 米は作れば、良い値で売れました。日本移民がブラジルに上陸した20世紀初頭には、米は不足して、輸入している状態でした。しかし、日系移民によって米の生産量は年々増加し、1920年代初期からは輸出に転ずるようになりました。1930年代になると、国内需要に回される米の80%は日系移民によって生産されると言われるまでになったのです。

 多少の蓄えもできたので、峯夫は一度、広島に戻り、多少なりともまとまったお金を置いてくる事にしました。実家を楽にさせるという目的でブラジルまで来たのに、今までほとんど仕送りもできていません。長男としての責任を何一つ果たしていない、という思いがあったのです。

 峯夫は1937(昭和12)年6月に、24年ぶりに帰郷しました。峯夫が年老いた母親に金を差し出すと、母親は拝むように受け取って、亡き父を祀る仏壇に供えました。


■5.「祖国へ救援物資を送ろう」

 やがて、日米開戦。ブラジルはアメリカを支持し、日本に国交断絶を通告しました。同時に日本・ドイツ・イタリアからの移民の資産は凍結され、不動産の売買も禁止されました。日本語の使用も禁じられ、サンパウロでは日本語学校の教師が逮捕されたりもしました。

 ただ、峯夫の周囲のブラジル人たちは、ほとんどが以前と変わらぬ付き合いをしてくれました。日系移民たちが、マラリアの蔓延する見捨てられていた土地を命がけで開墾し、豊かな米作地に変えていった事実をよく知っていたからです。

 終戦後1年半以上も経って1947年の年が明けた頃、峯夫の一番下の妹からの手紙が着きました。夫が原爆で亡くなったこと、老母は健在で、朝鮮から引き揚げてきた上の妹が面倒を見ていること、食糧難とインフレで大変なこと、などが綴られていました。

 祖国へ救援物資を送ろうという動きが始まりました。「日本戦災同胞救済会」が組織され、募金活動が行われました。峯夫たちも郷里に食料品や衣料を送りました。日本では入手できない高価なストレプトマイシンなどの医薬品も、郷里の親戚が必要としていと判るとすぐに送りました。母校の小学校にも消しゴム付き鉛筆を7百本ほども送りました。

 今まで苦労して貯めた貯金でしたが、それを使うことは少しも惜しくありませんでした。日本に帰りたいという思いは峯夫の胸に渦巻いていましたが、原爆で何もかも破壊され、インフレと食糧難で苦しい生活を強いられている肉親や親戚にしてやれることは、物資を送ることだけでした。

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 広島に帰れたとしても、わしには何もしてやることはできん。ブラジルから手助けをしてやるのが一番なんじゃ。
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 それは帰郷をあきらめようと、自分自身に言い聞かせている言葉でもありました。

 年老いた峯夫は、町に出ようと決心します。5人の子供たちには、教育らしい教育を受けさせてやれませんでした。いずれ日本に帰るからとブラジルの教育も受けさせておらず、また奥地のため日本語学校に通わせることもできなかったのです。

 しかし、今や5人の子供たちはそれぞれ日系移民と結婚して、孫たちが生まれつつありました。孫たちにはそんな目に遭わせてはいけない。自分が町に出れば、孫たちを預かって、そこから学校に通わせることもできる、そう決心したのです。

 そして、ブラジルの教育を受けさせるのと同時に、自分たちの手元で少しでも孫たちの世代に日本人としての躾をしたいと思ったのです。このまま孫たちがブラジルの一員として生きて行くにしても、日本人の美徳とされる正直、勤勉、親切さまでが失われていくことには耐えられない思いがしていました。

 1968(昭和43)年、峯夫はしばらく寝たきりの状態を続けた後、静かに息を引き取りました。医師が死を確認すると、妻のカノは大声で泣きながら叫びました。
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真っ直ぐにお母さんのところに行きなさいよ。真っ直ぐに日本に帰るとよ。
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■6.昼なお暗い原始林の中で始めた学校

 ブラジルで二世として生まれ育った村崎道徳(みちのり)のお母様も、この峯夫さんと同じ思いを持っていたそうです。村崎さんはこう語っています。
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 六十余年前のことですが、母は悩んだそうです。ブラジルに来たけれど、お母さんは失敗だったと思う。何故なら、文化の違いの中にあなた達を投げ込むのが本当に悲しい。「現地人の子等が日本にも月が有るか」と、聞くほどレベルが低いのです。[村崎、p64]
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 この思いから、お母様は決心します。
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 サンパウロ州奥地の昼なお暗い原始林の中で・・・母は、私たち兄妹に全情熱を傾けて日本人に育てるぞと覚悟を決めたそうです。村の子供たちも二十人くらいを呼び集め、家の一部屋を開放して学校を始めた。講義は何時も一番大事な、道徳心、約束を守る責任感を育てるために修身教科書に重きを置いて教えた様です。
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 お母様ご自身が、気高い道徳心の持ち主でした。
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祖父父母たち一世は、人間の生(いく)べき行ない、人類の行なうべき道を身を以って指し示している。

例えば、あの頃の物資不足の時、近所のブラジル人が米がない塩がないと言って来れば、黙って分け与えていたのだ。母は産婆の資格があって、遠い道も厭わず、又、四十度を越す炎天下でも、唯ひたすら無報酬で赤ちやんの誕生を手伝っていた。アフリカ系の黒人婦人も、イタリア系ドイツ系の婦人にも愛の手を差し伸べていた母。
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■7.「イペーの花はいくたび咲きし」

 上皇后陛下・美智子様は平成10(1998)年の歌会始めで、次のお歌を披露されました。

 移民きみら辿(たど)りきたりし遠き道にイペーの花はいくたび咲きし

 前年に美智子様がブラジルを訪問された時に詠まれたお歌です。イペーはブラジルの国花で「黄色い桜」とも言われ、ちょうど桜の木がピンクの花びらに包まれるように、鮮やかな黄色の花を咲かせます。ブラジルの深い緑と真っ青な空を背景にすると、原色の組み合わせが、いかにもブラジルらしい景色を醸し出します。

 ブラジルの農園に至る道に咲くイペーの花をご覧になられて、三代に渡る移民達が、いくたびこの花を見上げながら農作業に向かったかを偲ばれてのお歌です。

 峯夫さん一家も、このイペーの木に慰められながら、開墾作業に汗を流したことでしょう。また、村崎さんのお母様も、このイペーの木の下を通って、いろいろな民族の母親たちのお産を助けに行っていたのではないでしょうか。


■8.日本の心を伝える日本語の教育

 村崎さんのお母様が一言、戒めたことがありました。
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「貴方達はブラジルに育ちブラジル語を習うのですが、日本語を忘れてはいけません。何故なら日本語の中に日本精神が有り大和魂が有るのですよ。明治天皇さまが定められた教育に関する勅語の中に、太陽が自然を育むように、人間としての道、人類が助け合つてこの世に生きる根本の意味が書き記して有るのです」、五十年前の母の言葉で有ります。[村崎、p55]
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 お母様が何としても子供たちに伝えたかったのが、この日本語の中にある「日本精神」「大和魂」でした。
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和とは大和の心、即ち大和魂であります。大和魂は戦争を好む心ではありません。人々を平和の心で大きく包み、強く導いて行く心だと母に言い聞かされました。[村崎、p88]
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 村崎さんのお母様の志は、各地の日系人が持っていたようです。日系移民の集落毎に日本語学校が作られ、戦前だけで500校近くもあったといいます。

 しかし、1930年代にはヴァルガス独裁政権がブラジルでのナショナリズムの高揚を狙って、初等、中等教育でのポルトガル語以外の外国語の学習を禁じ、ブラジル全土の日本語学校が閉鎖された事もありました。こういう弾圧に負けずに、日本語の教育は続けられてきたのです。それがどのような奇跡を生み出したのか、次号で述べましょう。

 

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