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ねずさんのブログよりの転載です。

ねずさんの学ぼう日本 (nezu3344.com)

 

先日、大塩平八郎の檄文を倭塾でご紹介したのですが、みなさん、スクリーンに映し出されたその檄文(現代語訳したもの)を、そのまま写メされていました。
大塩平八郎の檄文は、それほどまでに、現代にそのまま適合する内容だったのです。

 

大塩平八郎の檄文

 

大塩平八郎といえば、学校で「大塩平八郎の乱」として習う人なので、ご存知の方も多いかと思います。
天保8(1837)年、彼は大阪で飢饉にあえぐ民衆を救おうと蹶起(けっき)し、破れて自決しています。

この蹶起の際に、彼は「檄文」をしたためています。
この檄文は、彼の人柄を示す実に見事な書で、また内容もたいへん立派であることから、彼の死後も書写の手本となって全国に広がりました。
そして、彼の思想と行動は、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山らへと受け継がれ、黒船来航という外圧が起こった際に、いっきに全国運動となって幕末動乱から、明治維新へとつながります。

下に掲載しますが、この檄文の内容は、いまの米国大統領戦にも、まったく同じことがあてはまるでしょうし、また日本の政治にもあてはまることではないかと思います。
是非、ご一読賜りたいと思います。

先日、大塩平八郎の檄文を倭塾でご紹介したのですが、みなさん、スクリーンに映し出されたその檄文(現代語訳したもの)を、そのまま写メされていました。
大塩平八郎の檄文は、それほどまでに、現代にそのまま適合する内容だったのです。

大塩平八郎の乱は、明治維新の30年前のできごとです。
檄文、乱、といえば、三島由紀夫の自決が昭和45(1970)年でした。
はやいもので、あれからもう半世紀が経過しています。
しかしコロナショックは、いま日本を目覚めさせようとしています。

 

大塩平八郎は寛政5(1793)年の生まれで、代々大坂町奉行の与力を勤める家柄で、平八郎はその八代目にあたります。
奉行所時代の平八郎は、ひどくカタブツで、常に白刃を振りかざして歩いているような、一種独特な生真面目人間だったようです。
同僚とえいる西町奉行所の同心、弓削新左衛門の汚職事件で、内部告発をしてこれを逮捕した他、数々の難事件を解決しているのですが、真面目すぎる男というのは、どうにも人間関係はよろしくない。

招かれて同僚の家に行った際も、幕府政治の腐敗の話になって激高し、普通ならまったく歯が立たない硬い魚(カナガシラ)の頭を噛み砕いてしまったとか、平素から
「邪心ある相手とは付き合うな」
とばかり、自身の交友関係を厳しく制限するとか、とにかくお固すぎて、まじめすぎた人だったようです。

それでいて周囲の同僚たちが歯がたたないのは、平八郎がたいへんな勉強家であったことで、実績もある。
仕事では誰にも負けないから、同僚からは妬まれ、そねまれ、陰口を言われ、人間関係という面では、たいへんなご苦労をされていたようです。

要するに真面目でカタブツで人付き合いも決して上手な方ではない。
だから悩んで10日くらい眠れない日をすごしたこともあったそうです。

けれど、そんなカタブツでも、ちゃんと見る人は見ているのです。
たとえ、人付き合いが悪くても、カタブツでも、真面目に働き、しっかりと勉強を重ねる。
そういう男を、得難い人物として高く評価し、重用したのが、平八郎の上司の大阪東町奉行、高井実徳でした。

高井実徳は平八郎を抜擢し、おかげで平八郎は大阪町奉行所の目付役筆頭、地方役筆頭、盗賊改役筆頭、唐物取締役筆頭、諸御用調役等と、出世階段を駆け上り、奉行所の要職を歴任させていただくことができました。
もっとも、出世すればしたで、同僚から妬まれる、いじめられる。
古来「男のヤキモチと、女の恨みほど怖いものはない」といいますが、難儀なものです。

大塩平八郎が偉いのは、そんなイジメに悩むこともあったけれど、それでもお役目を一生懸命真面目に勤めあげて、しかも生涯にわたって武芸も勉強も欠かさなかったことです。
どういうことかというと、人生の勝敗は、その瞬間瞬間のことだけではない、ということです。
たとえいま、誰からも認められなかったとしても、精一杯の真っ直ぐな日々を送る。
それを5年、10年、20年と続けた時、ひとはちゃんと気付いてくれるのです。

大阪町奉行所時代の大塩平八郎は、奉行所内の評判はとてもじゃないけれど芳(かんば)しいものとはいえなかったけれど、大阪の民衆からはとても愛された人でした。
民は、平八郎が公正で清廉潔白であることにちゃんと気付いてくれていたのです。

本来、奉行所の与力、同心は、その名の通り、与力なら「民に力を与える人」、同心なら「民とともに同苦し、同喜する」ための存在です。
だから、与力、同心という名が付いているのです。
いまの警察の職名と、昔の奉行所の、そこが大きな違いです。

さて、天保元(1830)年、なにかと平八郎の面倒をみてくれていたお奉行の高井実徳が転勤になります。
これを機会に平八郎は、跡目を養子の大塩格之助に譲り、お役目を辞して隠居しました。
平八郎、37歳のときのことです。

同僚との人間関係に苦しむ分、お奉行の信頼に応えることが生き甲斐であった平八郎にとって、奉行が転勤でいなくなるなら、自分も、もはや奉行所に未練はない、というわけで、奉行所を退職した彼は、自宅で「洗心洞」という私塾を開きました。
ここでの生活は、これまた実に平八郎らしいものです。

毎日、日暮れとともに就寝する。
そして午前2時に起床する。
起きるとすぐに趣味の天体観測をし、その後、庭先で素振り千回。
たっぷりと汗を流した後、真冬でも井戸水を頭からかぶって身を清め、午前5時には門弟を集めて早朝講義を実施する。

平八郎の講義はとても厳しいもので、門弟たちは緊張のあまり、まともに平八郎の目さえも見れないほどであったそうです。
同じく大阪で私塾「青山社」を開いていた頼山陽は、日頃から平八郎と仲良くしていたのですが、平八郎をして「小陽明」とその学識ぶりを称える一方で、
「君はまるで一日24時間、
 つねに白刃を振りかざしているようだ。
 ときには心の刃を鞘にしまい、
 普通の人間に戻りなさいな」
などと、忠告をしたことがあるそうです。

大塩平八郎は、日頃から、抜身の白刀(だんびら)を振りかざして生きているような人のように、他からは見られたわけです。
このような人は、たとえその人自身の人柄が円満で、心がまっすぐであったとしても、世の中の半分は歪んだ人でもあるわけですから、その歪みから人を見ます。
するとあまりにも真っ直ぐな人は、歪んだ人たちからは、最大に歪んだ人に見えてしまう。
そしてそういう人が古来必ず言われることが、
「君は抜身の白刀(だんびら)を振りかざして生きているような人だ」
という言葉です。
心に歪み(悪)を持つ人からみると、その人自身がどんなにやさしい人であっても、白刃を振りかざした怖い人に見えてしまうのです。

さて、大塩平八郎が私塾を開いた天保年間は、天保4(1833)年にはじまる大凶作によって、全国的に飢饉がひろがった時期にあたります。
大雨に洪水に冷夏に噴火。
次々と起こる天変地異に、米の収穫は激減し、全国的に餓死者があいつぐ自体となったのです。

本来なら、このような事態が起こっても、我が国は常に2年分のお米(新米と古米)が備蓄され、民衆が飢えることはないのですが、江戸時代の税率は、江戸時代の初期に出来高の4割と決まっていたものの、その後新田の開発が相次ぎ、耕地面積は江戸初期と比べて江戸中期には3倍に増えています。

もちろん人口も、全国およそ800万人だったものが、耕地面積の拡大にともなって2500万人にも増えた。
増えたけれど、新田に対する課税が一部にしかされなかったため、結果として、いざというときに庶民の面倒を見るべき武士の備蓄米は、相対的に減少してしまっていたわけです。

そこに数年続く飢饉が襲いかかったわけです。
民間部門を含めても、備蓄米は2年分しかない。
凶作が4年5年と続くと、ついには日本全国の備蓄米も底をついてしまい、あとは餓死を待つだけの状態になってしまうのです。

天下の乱れから、50年続いた11代将軍徳川家斉にかわり、徳川家慶が12代将軍に就任しました。
新将軍の誕生です。
たとえ、飢饉のさなかであっても、幕府の威信を保つために、将軍交代の儀式は派手に行わなくてはならない。
そこで時の老中水野忠邦が目を付けたのが、天下の台所の大坂です。

水野忠邦といえば、天保の改革で「享保・寛政の政治に復帰するように」と数々の法を制定して奢侈を禁止し風俗粛正を命じ、また物価高騰を防ぐためにと強制的に株仲間の解散を命じて低物価策を強引に進めるなどの貢献をした人物として学校で教わりますが、その結果はまたたく間のうちに、江戸時代の経済を冷えさせ、さらにこれに凶作が重なることで、民衆の生活を圧迫することになりました。

このとき、水野忠邦の政策に真っ向から反対の意思表示をし続けたのが北町奉行だった遠山金四郎で、おかげで遠山金四郎は、いまだに「遠山の金さん」として舞台やドラマで庶民の味方、庶民のヒーローとして扱われています。

こうして武士や庶民に、おそろしく質素倹約を求めた水野忠邦ですが、彼は同時に自分の実弟である跡部良弼を、町奉行として大坂に派遣しました。
天保七(1836)年、大阪東町奉行に就任した跡部は、大坂市中や近在の米の値段が暴騰するのをしり目に、「将軍交代の準備」という名目で、大商人からせっせと米を買付け、江戸に回送しました。

ただでさえ凶作が続いて米が不足していた時代です。
そんなときに、米を大量に買付けがあれば、あたりまのことですが、米価が急騰します。
おかげで大阪の市中では、食えなくなった町民が、毎日約150~200人飢え死にするという事態になってしまいました。

この惨状を見た大塩平八郎は、自分の考えた飢饉救済策を、何度も町奉行の跡部に訴えました。
けれど奉行の跡部良弼は、兄貴が江戸の老中水野忠邦です。
強力なバックがあるのですから、元大阪町奉行所筆頭与力とはいえ、いまはすでに隠居の身である平八郎の建白書など、まるで聞く耳持ちません。

それどころか、
「与力の隠居ふぜいが、
 身分さえわきまえずしつこい。
 牢屋にぶち込むぞ」
と逆に脅してくる始末です。

その間に、米価はというと、なんと7倍にまで跳ね上がってしまいました。
いまですとお米5キロでだいたい2000円くらいですが、それが1万4千円にまで高騰したわけです。
1食分のお米である1合は約150gですが、いまですとこの原価がだいたい50円くらいです。
それを外食レストランなどでは、半分だけ盛り付けて(つまり原価25円)、ライス一杯150円とかで売っているわけです。
これが7倍になるということは、ライス一杯が千円になるということです。

天保年間は、一部の裕福な商人を除いて、市民はほとんどのその日暮らしの状態でしたし、人は食べなければ死んでしまいます。
ですから市民たちは、必死にその日その日の食料を得、わずかな米をどこからともなくやっとの思いで調達するのですが、「それは闇米だ、規則違反だ」として、奉行所役人に捕えられ、せっかくのお米も取り上げられてしまう。

平八郎は、なんとかしなければならないと、豪商鴻池善右衛門に
「貧困に苦しむ者たちに米を買い与えるため、
 自分と門人の禄米を担保に
 一万両を貸してほしい」
と頼みました。

話を聞いた鴻池善右衛門は、平八郎の申込を、もっともなことだと受け止めて、なんとか一肌脱ごうとしたのだけれど、それをするためには、事前に町奉行の跡部に事情を説明して許可を得なければなりません。
その跡部が出した結論は、
「断れ」でした。
平八郎の善意も、鴻池善右衛門の善意も、跡部の出世欲の前に、すべてかき消されてしまったのです。

こうした中、甲斐の国(山梨県)や、三河(静岡県)で、現実に一揆や打ち壊し騒動が起きたというニュースが大阪の町にも飛び込んできました。

「このままでは大坂も
 一揆や打ち壊しが起きて
 たいへんなことになる」
と心配した平八郎は、重ねて跡部に、奉行所のお蔵米を民に放出するように訴えました。
しかしそれもまた却下されてしまいます。

平八郎は、自分の蔵書を処分するなどして、私財をなげうってお米を買い付け、ひとりでも多くの民を救済しようと努力します。
これはいまでも大阪や東京の大きな公園などで、ホームレスの人たち向けの善意のご飯の炊き出し活動などとして継続されていますが、大塩平八郎は、まさに私財をはたいて、それお行ったわけです。
けれどしょせんは隠居の身です。
米価も高騰し続けているし、私財もついに底を尽いてしまう。

「奸吏糾弾の事件後、
 また再び与力たちは不正に走り、
 四ヶ所の役人たちものさばり出し、
 しかも今回は町奉行までも、
 飢饉の救済もせず
 江戸の水野の方ばかりを向いている。
 もう、これ以上待つことはできない」

追い詰められた平八郎は、ついに門弟たちと蹶起を決意します。

天保八年(1837年)の正月、平八郎は「檄文」を起草しました。
できあがった檄文を、彼は大量に印刷して、大阪市中にばらまきました。

そして同年2月18日、彼はその檄文を木箱にいれ、直接幕府に届くよう江戸向けの飛脚に託すと、翌2月19日朝8時に、大阪の町でついに、門人や彼を支持する民衆とともに蹶起したのです。

しかし、彼の蹶起は、門人の密告によって、事前に奉行所に知られていました。
このため平八郎らは、出撃しようとした矢先に奉行所の役人たちに取り囲まれてしまいます。

腕のたつ門人たちによって血路を切り開いた平八郎は、息子の格之助とともに逃亡し、大阪四ツ橋あたりで刀を捨てて、とある商家の蔵に隠れていたところを、奉行所の役人たちに発見されてしまいます。
追い詰められた平八郎は、ついに息子と刺し違え、蔵を火薬で爆破して自決しました。
享年45歳でした。

けれど平八郎の檄文は、生き残りました。
そして万民に力を与え、ついには幕府を倒し、明治の時代を迎えるに至るのです。

その大塩平八郎の檄文です。
はじめにねず式で現代語訳したものを示します。
そのあとに原文を掲載します。

 *

天下の民が生活に困窮するようでは、その国は滅びる。
政治をするに足る器でない小人どもが国を治めれば、
国に天変地異や災害が起こるとは、
昔の聖人が深く天下後世の君子や人臣に教戒したところである。

民衆が苦しんでいるにも関わらず、
政治家や小役人どもは万物一体の仁を忘れ、
私利私欲のために得手勝手の政治をし、
そのうえ勝手我儘(かってわがまま)の法を作って、
国内の遊民ばかりを大切にし、
自分たちだけ何不足なく暮している。

このたびの天変地異による
天災という天罰を眼前に見ながら、
これに対して畏(おそ)れ慎(つつ)もうとせず、
餓死していく貧人乞食をみても救おうとせず、
自分たちだけは山海の珍味を食い、
妾(めかけ)の家にはいりこみ、
高価な酒を湯水のように振舞っている。

私たちは、もう堪忍(かんにん)することはできない。
やむなく天下のためを思い、
罪が一族・縁者におよぶ事もかえりみず、
有志とともに
民を苦しめている諸役人を攻め討ち、
さらにおごりたかぶる悪徳町人・金持ちを成敗する。


《原文》
(http://sybrma.sakura.ne.jp/385ooshio.gekibun.html より引用)

(袋上書)
 天より被下候
 村々小前のものに至迠へ

(本文)
四海こんきういたし候ハ 天祿ながくたゝん小人に國家をおさめしめば 災害并至と昔の聖人深く 天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ 東照神君ニも鰥寡孤獨ニおひて尤あわれみを加ふへくハ 是仁政之基と被仰置候然ルに 茲二百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこりを 極太切之政事ニ携候諸役人とも 賄賂を公ニ授受とて贈貰いたし 奥向女中の因縁を以道德仁義をもなき拙き身分ニて 立身重き役ニ經上り一人一家を肥し候工夫而 已ニ智術を運し其領分知行所之民百姓共へ過分之用金申付 是迠年貢諸役の甚しき苦む上江右之通無躰之儀を申渡 追々入用かさみ候ゆへ四海の困窮と相成候付人々上を怨さるものなき樣ニ成行候得共 江戸表より諸國一同右之風儀ニ落入 天子ハ足利家已来別而御隱居御同樣賞罰之柄を御失ひニ付 下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方なき樣ニ乱候付人々之 怨氣天ニ通シ年々地震火災山も崩水も溢るより 外色々樣々の天災流行終ニ五穀飢饉ニ相成候 是皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも 一向上たる人々心も付ず 猶小人奸者之輩太切之政を執行只下を惱し 金米を取たてる手段斗ニ打懸り実以小前百姓共のなんきを 吾等如きもの草乃陰より常々察し悲候得とも 湯王武王の勢位なく孔子孟子の道德もなけれバ 徒ニ蟄居いたし候處 此節米價弥高直ニ相成大坂之奉行并諸役人とも万物一體の仁を忘れ 得手勝手の政道をいたし 江戸へ廻米をいたし 天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已ならす 五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔いたし 実ニ昔葛伯といふ大名其農人乃弁當を持運ひ候 小児を殺候も同樣 言語同斷何れ乃土地にても人民ハ 德川家御支配之ものニ相違なき處如此隔を付候ハ 全奉行等之不仁ニて其上勝手我儘之觸書等を 度々差出し大坂市中游民斗を太切ニ心得候者 前にも申通道德仁義を不存拙き身故ニて甚以厚ヶ間敷不届之至且三都之内大坂之金持共年來諸大名へかし付候 利德之金銀并扶持米等を莫大ニ掠取未曾有之有福に暮し 丁人之身を以大名之家老用人格等ニ被取用 又ハ自己之田畑新田等を夥しく所持何に不足なく暮し 此節の天災天罰を見なから畏も 不致餓死之貧人乞食をも敢而不救其身ハ膏梁之味とて 結構之物を食ひ 妾宅等へ入込或ハ揚屋茶屋へ大名之家來を誘引參り 高價の酒を湯水を呑も同樣ニいたし 此難澁の時節ニ絹服をまとひ候 かわらものを妓女と共に迎ひ 平生同樣に游樂に耽候ハ 何等の事哉紂王長夜の酒盛も同事 其所之奉行諸役人手ニ握居候政を 以右之もの共を取〆 下民を救候義も難出來 日々堂島相場斗をいしり事いたし 実ニ祿盗ニて決而天道聖人之御心ニ難叶 御赦しなき事ニ候蟄居の我等最早堪忍難成湯武
之勢孔孟之德ハなけれ共 無據天下乃ためと存 血族の禍をおかし 此度有志のものと申合下民を惱し苦〆候諸役人を先誅伐いたし 引續き驕に長し居候大坂市中金持之丁人共を誅戮 およひ可申候間 右之者共穴藏ニ貯置候金銀錢等諸藏屋敷内に隱置候俵米夫々分散配當いたし 遣候間攝河泉播之内田畑所持不致もの たとへ所持いたし候共 父母妻子家内之養方難出來程之難澁者へハ 右金米等取らせ遣候間 いつに而も大坂市中ニ騷動起り候と聞傳へ候ハ 里數を不厭一刻も早く大坂へ向駈可參候面々へ 右米金を分け遣し可申候 鉅橋鹿臺の金粟を下民へ被與候遺意ニて 當時之飢饉難義を相救遣し 若又其内器量才力等有之者ニハ夫々取立無道之者共を征伐いたし候 軍役ニも遣ひ申へく候必一揆蜂起之企とハ違ひ追々年貢諸役ニ至迠輕くいたし 都而中興神武帝御政道之通寛仁大度の取扱にいたし 遣年來驕奢淫逸の風俗を一洗 相改質素ニ立戻り 四海萬民いつ迠も天恩を難有存父母妻子を被養生前之地獄を救ひ 死後の極樂成佛を眼前ニ見せ遣し堯舜天照皇太神之時代に復シかたく共 中興之氣象ニ恢復とて立戻り申へく候 此書付村々ヘ一々しらせ度候へとも 数多之事ニ付最寄之人家多候大村之神殿江張付置候間 大坂より廻し有之番人ともにしられさる樣ニ 心懸早々村々へ相觸可申候 万一番人とも眼付大坂四ヶ所の奸人共へ注進いたし候 樣子ニ候ハゝ遠慮なく面々申合番人を不殘打殺可申候 若右騷動起り候を承なから疑惑いたし駈參不申又者遲參及候ハ 金持之米金者皆火中の灰に相成 天下之宝を取失ひ申へく候間 跡ニて必我等を恨み宝を捨る無道者と陰言を不致樣可致候 其為一同へ觸しらせ候尤是迠地頭村方ニある 年貢等ニかゝわり候 諸記録帳面類ハ都而引破焼捨可申候是往々深き慮ある事ニて 人民を困窮為致不申積に候乍去 此度乃一擧當朝平將門・明智光秀漢土之劉裕朱佺忠の謀反ニ類し候と申者も 是非有之道理ニ候得共我等一同心中ニ天下國家を簒盗いたし候 慾念より起し候事にハ更無 之日月星辰之神鑑ニある事ニて 詰ル處者湯武漢高祖明太祖民を吊君を誅し 天討を執行候誠心而已ニて若疑しく覺候ハゝ我等之所業終る處を爾等眼を開て看 但し此書付小前之者へハ道場坊主或醫者等より篤と讀聞せ可申若庄屋年寄眼前乃禍を畏一己ニ隱し候ハ 追而急度其罪可行候

 奉天命致天討候
 天保八丁酉年月日某
 攝河泉播村村
 庄屋年寄百姓并小前百姓共へ


********

この檄文を平八郎が「誰に充てて書いた」のかというと、
「摂河泉播村々庄屋年寄百姓並貧民百姓たちへ」です。
思いあまって蹶起した平八郎の心根にあったものは、なにより、民百姓が安心して食える世の中にしたい、ということであったのです。

平八郎死後、大坂市中の町民たちは、平八郎を
「自分たちのために
 自身を犠牲にしてくれた
 大恩人」
という気持ちでこの「檄文」をひそかに隠し持ち、永く手習いの手本にしました。

またこうして書写された檄文は、全国の有志へと広がりました。
こうして平八郎の民を思う心は、ついには天をも動かし、民が政治に参加できる世の中が実現するに至りました。

大塩平八郎が乱を起こしたという事実については、もちろん賛否両論あろうかと思います。
しかしたいせつなことは、大塩平八郎が正しかったのか間違っていたのかという「評価」ではなく、平八郎から「何を学ぶか」であろうと思います。

大誠実をもってしても、平八郎のように最後は咎人として首を晒されなければならないかもしれない。
それでも、民衆のため、正義のために立ち上がる。
私達の先人達は、そういう先人たちの手で守られてきたのです。

 

お読みいただき有難うございます。

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