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国際派日本人養成講座よりの転載です。

http://blog.jog-net.jp/201901/article_7.html

 

公民教科書読み比べ(12) 人権思想の正体

 

■1.「それって人権侵害じゃん」



 昔、ある中学校で男子生徒が廊下で女性教師に突然ナイフで襲いかかり、刺殺するという事件が起きた。学校生活には不必要なナイフを持ってこさせないために、生徒たちの所持品検査をしようという意見が唱えられ、多くの人がこれを支持した。

 ところが、マスコミ、教育評論家、そして「人権派」と呼ばれる人々から、所持品検査は「生徒のプライバシーを侵害する。子供の人権を守れ」と待ったがかかり、結局、検査は実施されなかった。実際に殺傷事件の現場となった中学校ですら、「人権上の問題がある」として、所持品検査はされずじまいだった。[1, P9]

 その後、ある私立校の教師が、生徒がバタフライ・ナイフを持っているのを見て、「それ、こわいよ。持ってくるのをやめてよ」と言ったら、「おれが何かすると疑っているわけ? それって人権侵害じゃん」と言われた、という経験が新聞で紹介された。この教師は「人権・・・。教員は、この言葉にどれほど困っていることか」と嘆息した、と伝えられている。[1, P8]

 こんな状況はどこかおかしいのではないか? 一体、公民教科書では人権について、どのように教えているのだろうか?


■2.「人権」オンパレードの東書の公民教科書

 東京書籍版中学公民教科書(東書)[2]での第2章「個人の尊重と日本国憲法」は「憲法」をメインテーマにした章なのだが、その内容たるや「人権」の一本槍である。その中の三つの節のタイトルだけみても:

 1節 人権と日本国憲法
 2節 人権と共生社会
 3節 これからの人権保障

 と、すべて「人権」が入っている。前回までに述べた憲法の立憲主義、国民主権、天皇の地位、平和主義もすべて、この「1節 人権と日本国憲法」に入れられているのである。

「2節 人権と共生社会」は、この「人権」一本槍の章でも、さらなるクライマックスのようで、節のタイトルも最後の第6項を除いて「人権」と「権利」のオンパレードである。

 1 基本的人権と個人の尊重
 2 平等権-共生社会を目指して
 3 自由権ー自由に生きる権利
 4 社会権ー豊かに生きる権利
 5 人権保障を確かなものに
 6「公共の福祉」と国民の義務

「人権」は憲法を教える際の最重要項目の一つであるとは思うが、人権については5項目24頁も割かれている一方、「『公共の福祉』と国民の義務」がわずか1項目、2頁というのはいささかバランスを欠いているのではないか。


■3.「自由・権利の保持の責任とその濫用(らんよう)の禁止」

 この点で、育鵬社版(育鵬)は憲法を論じた第2章を二つに分け、第1節では「日本国憲法の基本原則」として、国民主権、基本的人権、平和主義などの原則を説明し、その後に第2節「基本的人権の尊重」を集中的に論ずる、という、東書に比べればバランスのとれた構成になっている。

 その原則面を記述した第1節の「5 基本的人権の尊重」では「基本的人権の保障」として重要性を述べた後、すぐに「公共の福祉による制限」の項を設け、次のように記す。

__________
 憲法は,国民にさまざまな権利や自由を保障していますが,これは私たちに好き勝手なことをするのを許したものではありません。
 憲法は,権利の主張,自由の追求が他人への迷惑や,過剰な私利私欲の追求に陥らないように,また社会の秩序を混乱させたり社会全体の利益をそこなわないように戒めています。
 憲法に保障された権利と自由は,「国民の不断の努力」(12条)に支えられて行使されなくてはなりません。憲法では,国民は権利を濫用してはならず,「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任」があると定めています。[3, p54]
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 この一節の左には、「自由・権利の保持の責任とその濫用(らんよう)の禁止」と題したコラムで、憲法第12条を引用している。

__________
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は,国民の不断の努力によって,これを保持しなければならない。又,国民は,これを濫用してはならないのであって,常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
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 憲法自体に自由と権利の「濫用」の禁止と「公共の福祉のためにこれを利用する責任」が明記されているのである。学校でナイフを振り回す「自由と権利」を主張する生徒に対しては、この第12条に基づいて、それが安全で充実した学校生活という「公共の福祉」を脅かしてないか、という切り口で反論できそうである。


■3.「人権制限」への警戒

 しかし、そんな反論もまたすぐに「待った」がかかりそうだ。東書が2頁だけ割いた「6 『公共の福祉』と国民の義務」の中身を見ると、まず「『公共の福祉』による人権の制限」というタイトルで憲法第12条を説明するが、その結びの一節は以下の通りだ。

__________
 しかし,何が公共の福祉に当たるのかを国が一方的に判断して人々の人権を不当に制限することがあってはなりません。人権を制限しようとする場合は,それが具体的にどのような公共の利益のためであるのか,慎重に検討する必要があります。[2,p58]
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 次に「自由権と公共の福祉」という項目では:

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 例えば,自由権の中でも経済活動の自由については,行きすぎると住民の生活環境が乱されたり貧富の差の拡大につながったりしかねないため,公共の福祉による制限が広く認められてきました。これに対して,精神の自由についてはこのような事情がなく,公共の福祉による制限は限定的にしか認められません。[2, p59]
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 最後の「国民の義務」に関しては、「普通教育を受けさせる義務」「勤労の義務」「納税の義務」を簡単に説明した後、次の一節で結ぶ。

__________
 憲法に義務の規定が少ないのは,憲法が国民の権利を保障するための法だからです。国は,憲法に反しない範囲で,国民に義務を課す法律を制定することができます。[2, p59]
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 このように、各項とも人権を制限する事に対する警戒心を露わにして結んでいる。特に「憲法が国民の権利を保障するための法」という憲法観は、「人権」一本槍の構成にそのまま現れている。


■4.「生まれながらの人権」の独善性

 東書のこうした「人権」至上主義はどこから来ているのだろうか。東書は「人権思想の成立」で次のように書いていた。

__________
 特に17世紀から18世紀にかけての近代革命のときには,人権の思想が,身分制に基づく国王の支配を打ち破るうえで大きな力になりました。そのため,近代革命のときに出されたアメリカ独立宣言やフランス人権宣言などでは,全ての人間は生まれがらにして人権を持つと宣言されました。[2, p36]
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 フランス革命は国王・貴族・教会の旧体制を打倒した革命であった。そのために今までの文化伝統やキリスト教思想からは断絶して、「人は生れながらにして人権を持つ」という主張がなされた。

 そこでは「信教の自由」も謳われていたが、カトリック教会の聖職者や信者には全く適用されなかった。「公序を乱す」という理由で、革命政権に忠誠を誓わない聖職者たちは国外退去や流刑、死刑が科せられ、信仰心の厚いヴェンデ地方では40万人とも言われる大虐殺が行われた。[a]

 なぜこんなことになったのか。それはこの「生まれながらの人権」という考え方が「観念の所産」であって、それまでの文化伝統も宗教もすべて無視して、自分たちだけで何事も決められるという「独善性」を解き放ってしまったからだ。

 そもそも「生まれながらの人権」とは、定義も証明もない「公理」でしかない。したがって何が人権で、何が人権でないかを、論理的に決める客観的基準がない。だから、革命で権力を握った人間たちが、「革命に反対する者には人権はない。殺しても良い」と決めてしまえば、それでも論理が通ってしまう。

 これが歴史伝統を尊重する立場なら「昔から人を殺すのは罪とされている」という道徳も出てくるだろうし、宗教的な教えからは「汝殺すべからず」という戒律も介入してきて、こうした外的な規律から権力者の独善性は制約を受ける。

「学校にナイフを持ってくるのも生徒の権利である」という主張も、「人権」という「観念の所産」からくる独善性がもたらしたものである。歴史伝統を尊重する立場なら「先生がダメと言ったらダメ」と簡単に禁止できる。「人権・・・。教員は、この言葉にどれほど困っていることか」という冒頭の教師の言葉は、「人権」という概念が生徒の独善性を許してしまうからである。


■5.小学校の教室に「自分の不利益には黙っていない」

「人権」という言葉が、教員を困らせている事情がもう一つある。それは「権利」にはもともと「戦って勝ち取るもの」という「闘争性」が潜んでいる事である。

 たとえば、近代的自由の源泉の一つとされるイギリスの名誉革命では、時の国王ジェームズ2世の専制に対して議会や諸侯が立ち上がり、王を追放して「臣民の権利と自由を宣言し、王位継承を定める法律」を定めた。こうした王権と議会のせめぎ合いの中から、権利が確立されていったのである[a]。

 したがって、権利を巡っての争いになりがちなのだが、歴史伝統や神の教えという外的な規律があれば、それが争いを予防したり、緩和する。しかし、それらの外的規律を無視して、何が「生まれながらの人権」なのか、戦いの勝者が決めることになれば、歯止めはなくなり、剥き出しの闘争となってしまう。

 かつて、北海道のある小学校の教室に「自分の不利益には黙っていない」という標語が掲げられていたというが、ここに権利の持つ闘争性という本質がよく現れている。人権概念がもたらした独善性が、歴史伝統や宗教による外的規律を排除して、その闘争性を解き放ってしまったのである。


■6.文化も歴史も宗教も持たないアトム(原子)としての人間

 このような「生まれながらの人権」を抑制しうるのは、ただ一つ、他者の「生まれながらの人権」だけである。逆に言えば、他者の人権を犯さない限りは、何をしようと自分の権利ということになる。

 たとえば、学校で授業をサボって校庭で昼寝していても、屋上でたばこを吸っていても、授業を受けている他の生徒の権利は侵していない。この考えには個人はあっても、クラスや学校という「共同体」のことはまったく考えられていない。八木教授は、次のように指摘する。

__________
 つまり「人権」という言葉が示しているのは、いかなる共同体にも属さず、歴史も文化も持たない、また宗教も持たない、まったくのアトム(原子)としての「個人」という人間観、人間像なのである。あえて「「人間」の権利」と表記するのはそのためである。[1, p13]
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 これもきわめてまた非現実的な「観念の所産」ではないか。


■7.「大御宝(おおみたから)」の歴史伝統

 このような特異な「観念の所産」である「人権」概念に実体を与えうる歴史伝統がわが国にはある。

 東書では「ハンセン病と人権」というコラムで、ハンセン病患者たちが、「有効な薬」が見つかった後も、国の政策によって隔離され、差別を受けた事例を紹介している[1, p45]。育鵬もハンセン病をとりあげているが、主張点はまったく異なる。「ハンセン病の『人間回復』」というコラムでは、次のような一節がある。

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 皇室は古くからハンセン病患者の救済に力をつくしてきました。岡山県瀬戸内市邑久(おく)町にある国立ハンセン病療養所,邑久光明園(こうみょうえん)の名前は,奈良時代の聖武天皇の后の光明皇后にちなんで付けられたものです。[3, p71]
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 光明皇后は施薬院を設けられ、ご自身でもハンセン病患者たちの身体を洗い、膿を口で吸い出されたという伝承が残っている。その光明皇后と同様にハンセン病対策を後押しされたのが、大正天皇の皇后であった貞明(ていめい)皇太后だった。皇太后が40年近くも陰ながら支えた光田健輔(けんすけ)が、各地に療養所を作り、「有効な薬」の治験も行ったのである。[b]

 

関東大震災の被災者を慰問される貞明皇后

 

 国の隔離政策を人権侵害だと学ぶのは良いが、同時にハンセン病患者のために生涯をかけた人々がおり、それを皇室が助けられてきた、という歴史を学んだ方が、中学生たちに「公共の福祉」のために尽くそうという情意を育てるには、はるかに有益だろう。

 皇室が国民を「大御宝(おおみたから)」としてその幸(さち)を祈り、その祈りを実現しようと代々の国民が努力してきた。そこには西洋で生まれた「人権」概念の独善性も闘争性もない。そういうわが国の心豊かな「大御宝の理想」をも、明日の公民となる中学生たちにぜひ教えて貰いたいものである。
(文責 伊勢雅臣)

 

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