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国際派日本人養成講座よりの転載です。

http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h13/jog214.html

 

オランダ人女性ジャネットは不思議な体験から 特攻隊員の心の軌跡を辿っていった。

 

■1.人生最期の朝■

     南アフリカ生まれのオランダ人女性ジャネット・デルポート
    はかつて仏教に帰依する尼僧として日本に滞在していた。平成
    元(1989)年の12月のある朝、まだほの暗い中で目を覚まし、
    天井を見上げていると、自分の心が物悲しい気持ちで一杯にな
    っていた。
   
     それはこの朝が自分の人生最期の朝だと思っているからなの
    だ、と気がついた。とにかく起きなければ、起きて飛行服を着
    なければ、と思った。そう思いながら内心、私は何故こんなこ
    とを思わなければならないのだろうか、といぶかしく感じても
    いた。
   
     自分は誰なのか。起きあがって座りなおしてみると、私は私、
    ジャネットなのであった。しかしまた横になると、私は若々し
    く健康な軍人であるような気がした。そして自分が両膝の間に
    操縦桿を握りしめて、煙と炎の中を突っ込んでいく姿が心に浮
    かんだ。
   
     ジャネットはこの不思議な体験から、いろいろと調べていく
    と、自分が感じたのは神風特別攻撃隊のパイロットだ、と思い
    至り、その第一号が関行男大尉であることを知った。関大尉率
    いる敷島隊5機は昭和19(1944)年10月25日フィリッピン
    のマバラカット飛行場を飛び立ち、レイテ近海にて敵艦隊を急
    襲、空母1隻撃沈、3隻に損害を与えるという戦果を上げた。
   
     ジャネットは遠く離れた南アフリカで自分が母の胎内に宿っ
    たのは、関大尉が戦死したのとちょうど同じ年、同じ月だった
    事を知る。

■2.愛する妻を守るために死ぬんだ■

     ジャネットは特攻に関する研究を続けた。
   
         6年にわたって特攻隊関係の資料をさがしあつめ、同時
        に仏教の尼僧として心をこめてお経をとなえつづけ、しか
        もあちこちの特攻戦没者を祭ってある神社やお寺を訪れて
        いると、はじめは研究をしていたのに、いつのまにか特攻
        隊員の心の軌跡をたどっていくようになりました。
        [1,p95]

     ジャネットのたどった関大尉の心の軌跡は次のようなものだ
    った。

     関行男大尉が、特攻の計画を知らされたのは、10月19日
    の夜だった。その隊長に選定されたと言われ、返事を求められ
    た時、それほど戦況が悪いのか、と疑問を抱き、また一人暮ら
    しの母や、5月に結婚したばかりの妻の事を一瞬思ったが、
    「はい。ぜひ私にやらせて下さい」と答えた。江田島の海軍兵
    学校に入った時からずっと、自分は戦死するだろうと考えてい
    し、フィリピンに赴任する前には、従弟に、私は多分戦死する
    だろうから、その場合は母のことをよろしくと頼んでいた。母
    や妻への遺書を一気に書き上げた。
   
         満里子殿
         何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対しては誠
        にすまぬと思って居る
         何も言はずとも 武人の妻の覚悟は十分できている事と
        思ふ 御両親様に孝養を専一と心掛け生活をしていく様 
        色々と思出をたどりながら出発前に記す
         恵美ちゃん(妻の妹)坊主も元気でやれ  行男
       
     翌20日の夜は、妻に送ってもらうための写真をとってくれ
    た同盟通信記者の小野田政記者と川のほとりを散歩したが、気
    を許して、僕は天皇陛下や帝国のために死ぬんじゃなくて愛す
    る妻を守るために死ぬんだ、と少し冗談めかして話した。

■3.一瞬でも目をつむったら、命中できないだろう■

         血気にはやって敵中に突っ込むことは簡単だ。そんなこ
        とは誰にでもできる。要は、つねに頭を冷やし、何事にも
        冷静に対処することだ。

     関大尉はこう語っていたが、ジャネットが何度もの夢と、調
    べた資料から思い描いた関大尉の最期は、まさにこの言葉通り
    だった。
   
     21日、出発したが、悪天候のために敵機動部隊を発見でき
    ずに帰還した。決意も固く飛び立ったのに、生還したのはとて
    も苦痛だった。
   
     25日の朝、今日が最期の日だと分かって、ほっとした気持
    ちだった。私の大切な家族と故郷の安危がかかっているのだ。
    操縦には自信がある。きっと命中してやるぞ。
   
     午前7時25分、離陸。このとき初めて私は泣けてきた。
    「お母さん。満里子・・・」とつぶやきながら、涙を、生きて
    流す最後の涙を、ぬぐいもせずに飛び続けた。
   
     敵のレーダー電波を避けるために低く飛ぶ。そして3千メー
    トルまで上昇してから、機体をひねって急降下に移る。敵は対
    空砲火を打ち上げてくる。目をしっかりと見開いていなければ
    ならない。一瞬でも目をつむったら、命中できないだろうと先
    輩パイロットは教えてくれた。しっかりと空母の飛行甲板に狙
    いをつける。猛烈な弾幕を突破する。恐怖心など、とっくの昔
    に突破した。
   
■4.甲板には大穴があき、火災が発生した■

     空母カリニンベイの戦闘記録によれば、関大尉と思われる一
    番機は胴体下の爆弾を投下して急上昇するものとの予想を裏切
    って、そのまま飛行甲板前部に体当たりした。
   
         突入と同時に、火炎が噴き上げ、激しい熱気が飛行甲板
        にみなぎった。しかしながら、それは爆弾の破裂によるも
        のではなかった。甲板には大穴があき、火災が発生した。
        体当たりした零戦は粉々になったが、胴体部分は飛行甲板
        前方をくるくる転がって行き、左舷側から海に転落した。
       
     250キロ爆弾は胴体下から離れ飛び、炸裂しなかったので
    ある。2番機、谷暢夫一飛曹は、関大尉による第一撃が十分な
    効果を上げなかったのを見るや、最初からの指示通り、ほぼ同
    じ処に突入し、空母は炎上して炎と煙を噴き上げた。
   
     他の一機に突っ込まれた空母セントローは、格納庫内の飛行
    機が次々と誘爆して、5分ほどで沈没してしまった。残る2機
    はそれぞれキトカンベイとホワイトプレーンズに命中して、損
    傷を与えた(ただし、どの機がどの戦果をあげたかについては、
    諸説ある)。この史上最初の神風特攻は豊田連合艦隊司令長官
    によって全軍に布告され、関大尉は中佐へと二階級特進の栄誉
    を与えられた。
   
■5.穏やかでクール■

     ジャネットは欧米人の書いた文章のなかにも、特攻隊員の心
    情に共鳴したものが少なくないことを知る。

         入手できた記録文書、日記、手紙、写真などすべてを見
        て感じることは、彼らが物静かで真面目で、教養の面でも
        判断力の面でも優れた人たちであったということである。
        日本の資料には、彼らのことを「冷静であった」と書いて
        あることが多い。冷静とは、現代ふうにいえば穏やかでク
        ールなことを意味する。(イワン・モリス、「失敗の高
        貴」)
       
     そのクールさで、彼らは何のために自らの生命を捧げたの
    か? ジャネットは次のように指摘する。
   
         しかし、特攻戦法が実行に移されたときに、それは勢力
        圏の拡大、領土獲得、あるいは栄光の夢のためだったので
        はなく、侵攻を阻止し祖国を守るための最後の手段であっ
        たことは、歴史的にあきらかである。[1,p123]

■6.報恩のこころ■

     特攻は自殺ではない。死ぬことは手段であって、目的ではな
    いからだ。ジャネットはこの点に関して、コルトという人の書
    いた論文の一節を引用している。
   
         よく知られているように、犠牲死は紀元2世紀のころ、
        荒れ狂う海の神を鎮めて、夫である日本武尊(やまとたけ
        るのみこと)の舟がぶじに航海できるようにと、海に身を
        投じた后の弟橘姫(おとたちばなひめ)の例が記録に残る
        最古のものである。[1,p93]

     紀元2世紀のころの弟橘姫から、20世紀の特攻隊員までに
    共通する日本人の心情を思いやったイワン・モリスの次の文章
    をジャネットは自著の冒頭に掲げている。
   
         戦闘における戦士の心理を説明したり、納得したりしよ
        うとする際によく言われる、敵愾心や戦死した戦友の仇討
        ちをしたいという願望は、特攻隊員の心の中に重きをなし
        ていなかったように思われる。・・・
       
         むしろ彼らの言葉は、日本人として生まれてこのかた受
        けた恩恵にたいして、報恩をしなければならないという気
        持ちを表現しているのではないだろうか。恩恵を受けてき
        た、今も受けているという気持ちと、いざという時に必要
        とあればどのような犠牲を払っても、その恩に報いたいと
        いう気持ちが、平戦時を問わず何世紀にもわたって、日本
        人のモラルの力強い底流をなしていたと思うのである。
       
■7.報恩の心は戦後日本の再建に向けられた■

     特攻隊員の示した報恩の心は、戦後日本の再建に向けられた、
    とジャネットは思い至る。終戦当時、広東省海南島にいた特攻
    艇「震洋」の隊長は次のような言葉を残している。
   
         終戦の際、私の隊は悲しみに沈んだが、別に変わったこ
        とは起きなかった。これを見て私は、いつものとおり訓練
        の続行を命じた。これは、隊員の士気を維持する効果があ
        ったと思う。
       
         訓練の終わりに全員を集め、これからどうするか、皆が
        対等の立場で議論することにした。そして、命令に服従せ
        ず戦い続けるか、全員自決するか、それとも他の特攻隊で
        死んでいった戦友の犠牲を無にしないよう生きて日本のた
        めに働くかの三つの道がある、と話した。
       
         思ったとおり、部下たちは三番目のいき方に賛成したが、
        このような人たちの献身的な活動が、戦後日本の迅速な復
        興に大きく寄与したと確信する。・・・
       
         日本が戦後に偉大な復興をとげることができたのは、戦
        死した多くの人たちのおかげだと、私は信じている。
       
    「きっと、英霊の御霊が戦後の復興に力を添えて下さったので
    しょう。」とジャネットは語る。
   
■8.あなたの御霊に、語りかけた■

     一人残された関行男中佐の母サカエさんは戦時中こそ「軍神
    の母」ともてはやされたが、戦後は一転して、世間の冷たい視
    線を受け、日々の生活にも困窮して、昭和28年に亡くなられ
    た。「せめて行男の墓を…」との遺言によって、翌29年、よ
    うやく関大尉の墓ができた。

     カナダに移り住んでいたジャネットが「四国の愛媛に行け」
    という内なる声に従って関中佐の生まれ故郷西条と墓のある伊
    予三島を訪れたのは、平成7年5月のことだった。伊予三島で
    は関中佐が幼い頃遊びに来た事もあるという親戚の家にあがり、
    手紙や写真を見せて貰った。その中には、結婚写真もあった。
   
         何とすてきなカップルでしょう! あなたは海軍の黒い
        軍服に剣をつって、すらりと立っており、日本髪に角隠し
        をつけた婚礼衣装の満里子さんは椅子にかけています。
       
         写真のカバーには、筆字で「結婚記念、昭和十九年五月
        三十一日」とありました。これは多分、あなたの筆跡でし
        ょうね。
       
         ああ、関中佐。お二人の若々しい、かしこまったお顔を
        見ていると胸が迫り、またもや泣き出しそうで、息をひそ
        める私でした。[1,p185]
       
     さらにジャネットは関中佐の墓を訪れる。[a]
   
         恥ずかしくてはっきり声に出してあなたに話しかけるこ
        とはできませんでした。でも、あなたはわかって下さった
        でしょう? 私が心の中であなたに、あなたの御霊に、語
        りかけたことを。
       
         そして私はあなたの戒名を書き写しました。カナダに帰
        ってからも、あなたにお経を上げて差しあげることができ
        るようにと。[1,p186]
   
■9.人間の偉大さ、気高さ■

     ジャネットは、バーナード・ミロットの特攻隊に関する著書
    の次のような結びを引用する。
     
         特攻隊員の犠牲は、他の戦争での生命の犠牲と同様に無
        駄であったかもしれないが、あの日本の英雄たちは、世界
        に向かって純粋なかたちで大きな教訓を与えてくれた。彼
        らは歴史の深みの中から、忘れていた人間の偉大さ、気高
        さを掴み出して見せてくれたのである。
       
     カナダに帰ったジャネットは、著書のエピローグを次のよう
    な関中佐の言葉で結んでいる。
   
         今度、西条へ行ったら、雨が降ったりしていなければ、
        川のほとりの武丈公園へ行って、私のことは考えずに星空
        を見上げなさい。私はそこの桜の木の間にいる。ただし、
        私を知るには、まず星空を見上げなくてはならない。

 

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