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http://www.sankei.com/premium/news/150813/prm1508130012-n1.html

 

 「戦前の樺太は活気にあふれててね。自然も豊かで人情もあって。本当にいいところだった…」

 

 南樺太で生まれ育った近藤孝子(84)=東京都三鷹市在住=はこう言って目を細めた。

 

 明治38年、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南の南樺太は日本領となった。多数の日本人が入植し、林業や漁業、製紙業などで栄え、昭和16年12月の国勢調査では40万6557人が暮らしていた。

 

 米国と戦争が始まっても平穏だった。学校では日本人、ロシア人、朝鮮人が一緒に学んだ。近藤は南樺太でずっと幸せに暮らしていけると信じて疑わなかった。

 

 ところが、昭和20年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州に一斉侵攻したことで近藤らの人生は大きく変わった。

 

 樺太への侵攻は11日に始まり、ソ連国境近くの古屯(ことん)付近で日本軍と戦闘になった。北部の住民が南部に避難してきたが、近藤らが暮らす落合町など南部は空襲もなく、今ひとつ戦争の実感はなかった。

 

 8月15日正午。近藤は女学校の同級生とともに勤労動員先の陸軍大谷飛行場近くの寄宿舎で、玉音放送を聞き、終戦を知った。

 

 ところが、終戦後もソ連軍の攻撃は続いた。20日には、樺太西海岸の拠点だった真岡町にソ連軍が上陸した。内地への引き揚げ命令が出た22日、ソ連軍は樺太庁のある豊原市(現ユジノサハリンスク)を爆撃、100人以上が死亡した。

 

 

 

 同日、引き揚げ者を乗せ、北海道・小樽に向かっていた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3隻が国籍不明の潜水艦の攻撃を受け、第二新興丸を除く2隻が沈没、1700人以上が死亡した。犠牲者の大半は女性や子供、老人だった。

 

 ソ連はこの事件に関して沈黙を守ったが、ソ連崩壊後、海軍記録などからソ連太平洋艦隊の潜水艦L-12、19が付近海域で船舶3隻を攻撃したことが判明している。この事件を受け、引き揚げ事業は中断され、近藤ら大勢の日本人が南樺太に留め置かれた。

 

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 サハリンに名を変えた南樺太は無法地帯となった。

 

 ソ連兵は傍若無人だった。短機関銃を構えて民家に押し入っては時計や万年筆、鏡など貴重品を手当たり次第に略奪したが、黙って見ているしかなかった。

 

 強姦(ごうかん)も日常茶飯事だった。近藤ら若い女性は髪を短く切り、作業服姿で男のふりをして日中を過ごし、押し入れか屋根裏で就寝した。ソ連兵が家に押し入ると押し入れで息を潜めた。

 

 そこで若い女性が選んだのは、朝鮮人との結婚だった。少なくない女性が「強姦されるよりも嫁に行った方がいい」と思っていたからだ。近藤も23年5月に朝鮮人と結婚した。

 

 同年10月、親代わりだった叔父夫婦や弟の帰国が決まった。叔父らは「一緒に帰ろう」と勧めてくれたが、夫が帰国対象にならないことから南樺太にとどまった。同じような境遇の日本人妻は数多くいた。

 

 サハリンは日本人妻にとってますます住みづらくなった。朝鮮人は男女問わず「日本のせいで故郷に帰れなくなった」と日本人妻をなじった。ソ連当局の監視も厳しかった。

 

 耐えられず朝鮮名に改名する日本人妻も多かったが、近藤は本名を通した。「いつか日本に帰る」と心に決めていたからだ。

 

 唯一の慰めが、ラジオから流れる日本の歌謡曲だった。美空ひばり、三橋美智也-。樺太で生まれ育った近藤は歌詞の日本の地名にはピンとこなかったが、歌を聞く度に「私は日本人なんだ」と勇気づけられた。

 

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 日本に一時帰国できたのは平成2年5月。千歳空港に降り立つと弟が出迎えてくれた。42年ぶりの再会だった。

 

 近藤が末娘一家とともに日本に永住帰国したのは平成12年10月、終戦から55年がたっていた。今も幸せを感じているが、ふとこう思うこともある。

 

 「私が知っている樺太での日本とはどこか違う。日本は戦後、大切なものをなくしてしまったんじゃないか。樺太のことも忘れられていくのかな…」

 

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 北方領土・色丹(しこたん)島は、標高412メートルの斜古丹(しゃこたん)山など3つの山が丘陵地と入り江を織りなす美しい島だった。島の中心集落・斜古丹(ロシア名・マロークリリスク)からぬかるんだ山道を車で1時間余り。日本人墓地は、イネモシリと呼ばれる海を見渡せる丘の上にあった。

 

 だが、墓地の荒廃は進んでいた。クマ笹や雑草が生い茂り、傾いたまま放置された墓石も少なくない。

 

 旧ソ連は北方四島を軍事要塞化し、元島民が近づくことさえ認めなかったが、昭和39年以降、墓参だけは認めるようになった。

 

 元島民が25年に結成した千島歯舞(はぼまい)諸島居住者連盟(札幌市)は「墓参が四島返還の足がかりになる」と考え、ほぼ年1回の集団墓参を実施してきた。

 

 平成に入るとソ連は崩壊し始めた。これを好機とみた日本政府は四島への人道支援を始め、病院や学校、ディーゼル発電所などを次々に建設した。支援を通じて、元島民がビザなしでいつでも帰還できる環境を整えようと考えたからだ。

 

 これが奏功し、入植ロシア人の対日感情は改善され、「四島を日本に返還し、ロシア人も繁栄の恩恵にあずかるべきだ」という声が上がるようになった。

 

 だが平成18年に潮目が変わった。露政府は「クリール(千島)諸島社会経済発展計画」を策定し、9年間で千島列島のインフラ整備や生活向上に計179億ルーブルの資金投入を決定。24年7月には露首相のドミートリー・メドベージェフが国後(くなしり)島入りし「一寸たりとも領土は渡さない」と断じた。今年7月には今後10年間で700億ルーブルの投資を決めた。

 

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 18年以降、四島のロシア化は着実に進んでいる。

 

 色丹島では26年12月、「南クリール地区中央病院色丹分院」が開業した。デジタルマンモグラフィーなど最新医療設備が並び、ロシアの全病院で病歴や投薬情報を共有するシステムも導入された。同島のクラボザヴォツク水産加工場もスケトウダラを加工・冷凍する最新の生産ラインを備えた。他にも小中学校などの建設ラッシュが続く。

 

 10歳まで国後島で暮らした大塚誠之助(80)=札幌市在住=はこう語る。

 

 「70年という時は長すぎる。ロシア人が生活の根を張り、昔の面影が消えた島に高齢の私らは今さら移住できない。せめて生きている間に自由に往来できるようになれば…」

 

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 昭和20年8月15日、北方四島の居住者1万7635人は米軍の空襲を一度も受けることもなく終戦を迎えた。まさか島を追われることになるとは夢にも思わなかったはずだ。

 

 ところが、18日、ソ連第2極東方面軍8千人超が、千島列島北端の占守(しゅむしゅ)島に侵攻した。陸軍第91師団2万3千人が応戦し、23日の武装解除まで日本兵600人、ソ連兵3千人の死者を出す激戦が続いた。南樺太にもソ連第2極東方面軍が11日に侵攻し、陸軍第88師団と激突した。

 

 もし両師団が応戦していなければ、北海道北半分はソ連に占領されていただろう。第33代米大統領のハリー・トルーマンが、ソ連共産党書記長のヨシフ・スターリンに「北海道の占領は認めない」と通告したのは8月18日だったからだ。

 

 だが、択捉(えとろふ)島以南に米軍が進駐していないことを知ったソ連軍は8月28日に択捉島、9月1~5日までに色丹島、国後島、歯舞群島を占領した。日本が降伏文書に調印したのは9月2日。国際法を踏みにじる蛮行だった。

 

 ソ連軍の上陸は四島の島民を恐怖のどん底に突き落とした。若い女性は変装して納屋に隠れたが、逃げ場を失い、幼子を抱えて海に身を投げた母親もいた。

 

 ソ連は21年2月に四島を自国領に編入。島民を強制退去させる決定をした。島民は小型船で沖合に出た後、荷物用モッコ網に入れられてクレーンでつるしあげられ、大型貨物船の船倉に降ろされた。完全にモノ扱いだった。

 

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 今年3月末の元島民は6774人、70年前の4割以下に減った。四島の入植ロシア人は計1万7千人超で終戦時の日本人数に迫る。元島民の平均年齢は79・8歳。残された時間はあまりない。(敬称略)

 

2015年8月の記事です。

 

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