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【産経抄】100年たっても彼の国の政治は…  11月20日

http://sankei.jp.msn.com/life/news/131120/art13112003100001-n1.htm

 

 世の中、便利になったもので、五千円札の肖像にもなった新渡戸稲造氏が、昭和初期に書いたエッセーを電子書籍で簡単に読めたのには驚いた。しかも無料じゃあ、神田の古本屋もたまったもんじゃない。

 

 ▼と、ブツブツ言いながら読んだのが「偉人群像」である。内外の偉人たちのあれこれをエピソードを交えて描いており、彼が実際に会って話をした同時代人の生き生きとした口跡が伝わってくる。

 

 ▼伊藤博文元首相(公爵)の巻は、ことに感慨深い。東京帝大で植民政策を講じていた新渡戸は、明治41年ごろ、初代韓国統監を務めていた伊藤に会うためソウルに渡った。「韓国併合」に難色を示す伊藤公をなんとか説得してほしい、と友人の官僚に頼まれたのである。

 

 ▼「朝鮮人だけでこの国を開くことが果たしてできましょうか」と勢い込んで日本人の大規模移住を説いた新渡戸に伊藤はこう諭したという。「君、朝鮮人は偉いよ。この民族にしてこれしきの国を自ら経営できない理由はない」と。

 

 ▼42年、統監を辞したばかりの伊藤博文は、ハルビン駅頭で安重根の凶弾に倒れた。歴史に「もし」はないが、併合に批判的だった彼が健在だったならば、その後の日韓関係はもっと違った風景になっていたはずである。そんな犯罪者をたたえる石碑をハルビン駅に建立しようという計画が、中韓両国で進んでいる。

 

 ▼父の朴正煕大統領を狙い、母を殺した文世光の像をソウル駅前に建てるのと同じ愚挙であることを娘の朴槿恵大統領はお気づきでない。新渡戸に伊藤はこうも語った。「(韓国が)今日の有様(ありさま)になったのは、人民が悪いのじゃなくて、政治が悪かったのだ」。100年たっても彼(か)の国の政治は、一向に改まっていないようである。

 

 

伊藤博文は韓国併合には消極的であって韓国の自立を望んでいた。

 

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画

「一国の独立」は文章や宣言や示威行動によっ実現できるものではないことを知ってほしいのです。独立は民族がこぞって諸条件を具体的に克服することによってもたらされるものです。他国に要望して実現したのでは傀儡になる可能性さえあります。それではどうすべきであったのか。ここでは明治40年5月30日、韓国の閣僚たちに伊藤博文統監が与えた訓示を掲げます。伊藤統監は、一国が独立することの意味を厳しく問うています。

『日清戦争後まもなく、ロシヤが、手を韓国にのばすや、韓国はそれをとがめぬばかりか、韓国独立のために謀る日本を嫌厭した。韓国は自国の独立の為には、不利なことは判りながらロシヤに追従したではないか。日清の役から日露の役に至る十年間、韓国は奮って、独立の要素を涵養しなければならなかった時期でもあったにも拘わらず。これを顧みず、或いは右に赴き、或いは左に傾いて、そのために遂に、日本が韓国のために、ロシヤと戦わねばならなくした。故に、今日、日本が韓国の外交権を手中に収めたのは、当然のことである。何故ならば、これを依然として、韓人の手中に収めて置くとするならば、韓国は何時までも、列国の競争場となり、日本の為に極めて危険だからである。然るに韓人は、今日に至っても尚、外交権を回復するだけの実力を養う努力をしようとせず、しきりに、他国の援助によって、これを日本から取り去ろうとしているようである。けれども、どんな国にせよ、他国のために、自国の財力と国民の生命を犠牲に供するものはない。……およそ国家は、自ら、独立する要素がなくて、単に、他国に寄りかかっているだけで、立っていけるものではない。今日のままで進むとすれば、韓国を亡ぼすものは、他国ではなく、韓国自身ではなかろうか。故に諸君は、反覆表裏なく、専心一意、韓国のために謀らなければならない。日本は諸君を助けて、韓国を独立させるよう尽力しつつある、然るに韓人は、日露戦争のような大激戦を目撃していながら、尚、覚醒しないのは、何事であろうか……そうだ、韓国を滅ぼすものは日本人ではなくて、内外の形勢を察せず、無謀軽挙を事とする韓人である。……自分は韓国の改善に絶望した事もしばしばである。しかしながら韓国の形勢に顧みて、忍耐して従来の方針を改めない。国は自ら立たなくてはならない。今日のようにして進むならば、韓国は、もはや、自滅の他ない。』 

 

伊藤遭難の報せを聞いたドイツ人医学者エルビン・ベルツは、

 

「伊藤博文をしのぶ」と題した一文をすぐドイツの新聞に発表した

 

ベルツは東京医学校に招かれて明治9年に来日して肺臓ジストマを発見し、

 

宮内省御用掛として明治天皇の侍医をつとめ、明治38年に帰国していた

 

『伊藤が、人もあろうに韓国人に暗殺されたことは、かれが日本における韓国人の最上の知己であっただけに、いっそう悲劇である。日露戦争の後、日本が韓国に干渉の手を差しのべたとき、思いがけない抵抗に突きあたった。暴動と日本人殺害は、いつ果てるともみえなかった。そこで東京の軍部と新聞は、思い切った処置と、武力による圧制を要求した。しかし伊藤は、穏便な出方を支持したのである。かれは、腐敗し切っていた韓国の国家制度に有益な改革を加えることにより、日本の統治下にある方が優っていることを、韓国民に悟らせることができると信じていた。……ヨーロッパでは、韓国における日本側の過酷な仕打ちについてのみ聞かされているが、学校を建てたり、合理的な農業や養蚕を教えたり、鉄道や道路や港湾を設けたり、勤勉で熟練した日本の職工や農夫の手本を示したりして、日本側の挙げた業績については、何も知らされていない。しかし筆者は、3回この韓国を訪れて、親しくその事実を確かめたのである。……いつか韓国民自身が、恐らくこの暗殺を悔やむことだろう。――だが、日本にとっては、伊藤博文は掛替えがない。その老練無比の政治家を、国家は失い、無二の信頼すべき顧問を、天皇は失った』

 

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