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国際派日本人養成講座よりの転載です。
http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h16/jog373.html

石造りの高層ビル街は、西洋諸国に屈服した近代中国の歩みを象徴している。

■1.「偽りの正面」■

 タクシーが川岸に出ると、壮麗な石造りの高層ビルが建ち並
ぶ一角が見えた。これが有名な上海の旧租界地域だな、とすぐ
に分かった。堂々とした建物を横目に、車の洪水とクラクショ
ンの喧噪の中を通り過ぎていくと、中国にいるとはとても思え
ない。そう、まさにニューヨークのウォールストリートあたり
を走っているのではないか、という錯覚にとらわれる。あとで
観光ガイドブックを見ると、これらの高層ビルは1920年代
に建てられたもので、当時ニューヨークで流行していたアール
デコという様式を真似たものだそうな。私の錯覚もまんざら根
拠がないではない、と勝手な自己満足にひたる。

 この一帯をバンドという。上海バンドと言うからジャズか何
かの楽隊かと思っていたら、それは"band"で、こちらは"bund"
だった。元来、「築堤」を意味する英語だったが、大英帝国が
築いたアジアでの港湾居留地のウォーターフロントを指すよう
になった。インドのボンベイ、シンガポール、香港、上海、そ
して我が国の横浜や神戸にも、バンドは築かれていた。

 その一方で、バンドは「偽りの正面(フォールス・フロント)」
とも呼ばれる。私がニューヨークを走っているのではないかと
いう錯覚にとらわれたように、このビル街はどう見ても中国の
街とは思えない。中国でありながら、西洋の都市であるかのよ
うに「偽って」いる。裏側の貧しい街路を見れば、すぐにばれ
てしまう。

 バンドは西洋諸国の軍事力と文明がアジアに及んだ「西力東
漸」の歴史の遺産であり、まさしく西洋諸国に屈服した近代中
国の歩みを象徴するものである。そしてそれは我が国から見て
も他人事ではなかった。一つ間違えば、横浜や神戸にもこうい
う石造りの「偽りの正面」が出来ていたはずである。

■2.アヘン戦争の敗戦から生まれた近代都市■

 上海の近代都市としての出発は、アヘン戦争[a]の敗戦後、
清国が英国と1842年に結んだ南京条約に始まる。この敗戦条約
によって清朝政府は上海を含む5港の開港を承認した。それま
では地方港に過ぎなかった上海にすかさず目をつけた所に7つ
の海を支配した大英帝国の慧眼ぶりが窺われる。

 上海は長江(揚子江)の東シナ海への河口に位置する。長江
は世界最大級の河川で、重慶から上海までは実に2690キロ。
その流域は約2百万平方キロメートル、すなわち日本の国土面
積の5倍以上である。しかも、その下流域のデルタ地帯は「江
浙(こうせつ)熟すれば天下足る(江蘇省、浙江省が豊作なら
ば、国中が飢えに困ることはない)」と言われほどの大穀倉地
帯である。

 英国は中国から茶を買い付けるために、英国製の綿工業製品
をインドに売りつけ、その代金でインドのアヘンを買って中国
に売る、という巧妙な三角貿易を実現し、これがアヘン戦争の
原因となったのだが、上海を抑える事で中国との貿易はさらに
飛躍的な発展を遂げるだろう。

 南京条約に従って、第1回土地章程が結ばれた。これによっ
てイギリスを始めとする外国商人達が葦の生えた無人の湿地に
盛り土をして、建物や道路、港湾施設を建設し始めた。

 幕末期、日本が米国と結んだ日米修好通商条約も、この土地
章程に倣って作成されたもので、これに基づいて横浜や神戸の
居留地が作られた。上海・横浜・神戸は同じ境遇のもとに生ま
れおちた、と言える。

■3.育ての親たち■

 この時期は、欧米人から見れば日本も中国も同じような極東
のフロンティアであり、両国で活躍した人も少なくない。1846
年から上海領事を務めたラザフォード・オールコックは、黎明
期上海の都市計画を推進した人物で、その業績を讃えて、戦前
のバンドには銅像まで建てられていた。その後、1859年には日
本に移り、初代総領事兼外交代表を務めた。在日3年間の記録
として「大君の都」を残している。

 急増するアヘン貿易の利益の一部は、租界建設の投資として
つぎこまれ、オールコックは「上海居留地は一つの自治共和国
なり」と言っている。

 1848年にはフランスも上海に租界を得た。このフランス租界
にガス灯をともしたフランス人技師アンリ・プレグランは、そ
の後、来日し、横浜をはじめ東京などの各都市に次々とガス灯
をともし、明治日本におけるガス灯の父として知られるように
なった。

 明治維新の1868年に来日し、神戸居留地全体の都市計画を策
定したイギリス人技師ジョン・ハートは、その後、上海に渡り、
上海水道会社の工師長として水道建設に力を注ぐ。

 このように、日本の横浜・神戸と上海は何人かの共通の親に
育てられた。

■4.「我が国も覆轍を踏む兆しあり」■

 明治維新に先立つこと6年、文久2(1862)年6月2日に、幕
府の公式の貿易船「千歳丸」が上海に到着した。千歳丸はイギ
リスから買い上げた帆船で、船長以下イギリス人の船員によっ
て運行されていた。表向きは「貿易船」だったが、西洋諸国に
侵略を受けつつある清国の情報収集が真の目的だった。

 この船に、幕臣の従者の資格で長州藩の高杉晋作が乗り込ん
でいた。同様に薩摩、佐賀、大村など外様藩の藩士も乗船して
いた。各藩に海外の実情を見せようという考えだった。高杉は
2ヶ月ほど上海に滞在し、その印象を日記「遊清五録」にこう
記している。

 ヨーロッパ諸国の商船や、軍艦のマストが港を埋め尽し
ているさまは森の如く、陸上には諸国の商館が壁を連ねる
こと城郭の如くその広大なことは筆舌に尽くしがたい。

 この地はかって英夷(イギリス人)に奪われた場所であっ
て港が賑わっているといってもそれは外国船が多いためで
ある。中国人の居場所を見れば、多くは貧者で不潔な環境
に置かれている。わずかに富んでいるのは外国人に使役さ
れている者だけである。

 実に上海は支那に属している言えども、実際は英仏の属
地というべきである。

 我が国も覆轍(ふくてつ、くつがえった車の轍(わだち)
の意から、前人の失敗のあと)を踏む兆しあり。

■5.外国人商人たち■

 中国における外国人の商店を「洋行」と呼ぶ。その代表的な
存在は「怡和洋行」である。1782年広東で設立され、アヘンの
密貿易の最大手としてアヘン戦争に深く関わった。上海開港と
共に、この地で海運貿易を中心に機械、紡績、タバコなど幅広
く手がけ、アジア最大の商社に成長した。

 横浜にも「英一番館」の名で商館を構え、グラバー商会を手
先に、幕末期の動乱にアメリカ南北戦争で残された大量の鉄砲
を売り込んだりしている。

 ユダヤ系イギリス商サッスーン一族は、上海の歴史を語るう
えで欠かせない。この家系はバグダッドで始まり、1832年ボン
ベイに移住して、同族会社を創業した。上海開港直後の1845年、
バンドに早々と沙遜洋行を構えた。急成長する上海で不動産ビ
ジネスを展開し、ホテル、事務所ビル、マンションなどを建て
て、巨大な利益を上げた。1929年には現在のバンドの石造り高
層ビルの中でも偉容を誇るサッスーン・ハウスを建てた。

 1937年に日中戦争が始まり、上海でも事変が勃発すると、サッ
スーン一族はこの地を早々に引き払って、中南米のバハマに次
の天地を求めていった。「偽りの正面」のかなりの部分は、サッ
スーン一族の遺産である。

■6.中国の戦乱がもたらした上海の繁栄■

 第1回土地章程では、日用品の商人や下僕以外の中国人は租
界に住むことを禁じられていた。しかし中国本土で太平天国の
乱が荒れ狂うと、大量の難民が租界に流入してきた。その中に
は革命運動から財産を守ろうという資産家階級も含まれていた。
外国人義勇兵に守られた租界は、彼らにとっても平和の別天地
であった。この資産家階級の流入が上海の繁栄をさらに加速し
た。1862年には中国人人口は50万人にも膨れ上がり、租界面
積も否応なく拡張されていった。

 一方、上海と同様に外国人居留地として生み落とされ、育て
られてきた横浜や神戸は、日本国内の安定と着実な産業近代化
のもとで、民族経済の貿易港として大きく発展し、外国人居留
地は相対的にしぼんでいった。

 上海の租界としての急速な発展・繁栄は、中国国内の戦乱の
裏返し現象であり、逆に横浜・神戸の外国人居留地が未熟のま
まに終わったのは、明治日本の安定と発展の賜だった。

 高杉晋作の「我が国も覆轍を踏む兆しあり」という危機感は、
明治日本の指導者層に共有されたものであり、それをバネに政
治経済の近代化に務めた結果、我が国には「偽りの正面」はで
きなかったのである。

■7.日本人租界の誕生■

 外国人租界として、同じ運命のもとに生み落とされた上海と、
横浜・神戸の運命を決定的に分けたのが、1894(明治27)年
に始まった日清戦争であった。

 日本は勝利を得て、翌1895(明治28)年に結ばれた下関講
和条約では、第6条に「日本国民は清国各開市場開港場におい
て自由に各種の製造業に従事することを得」と取り決められた。
西洋列強も最恵国と同様の待遇を得るという条約をもとに、す
かさず同じ権利を得て、この年を機に租界一帯にも外国資本の
工場施設が建ち並んでいく。上海の工業はすでにこの段階から
外国資本に牛耳られ、民族資本による工業化は大きく阻まれる
ことになった。

 1911年の辛亥革命の翌年、清朝政府は瓦解した。内乱を逃れ
て、中国人が引きも切らず流入を続ける。一方、日清日露の戦
役で台頭した日本からの移住者が、租界の北側の虹口地区に住
み着き、この一帯は「日本租界」と呼ばれるようになった。

 1914年、上海全体の人口は100万人を突破し、そのうち外
国人は2万2千人ほどだった。日本人が1万2千人弱と半分以
上を占め、あとはイギリス3千7百人、ポルトガル3千2百人、
アメリカ2千8百人と続く。

「偽りの正面」のビル街にも、横浜正金銀行や台湾銀行の上海
支店ビルが、肩を並べるようになった。

■8.大戦下の上海■

 1937(昭和12)年7月、北京郊外の盧溝橋において中国軍側
からの発砲を契機に戦闘が始まり、8月には蒋介石が70万人
の大軍を集結させて、上海の日本守備隊と居留民を脅かした。
杭州では200名もの日本人が虐殺された事件があったばかり
である。松井石根を司令官とする上海派遣軍が派遣され、甚大
な損害を受けながらも、中国軍を撃退した。

 この時、上海の難民区で30万人の中国人を保護していたフ
ランスのジャキノー神父は、日本軍が1発も銃弾を撃ち込まず、
また難民救済への資金援助をしてくれたとして、松井大将に感
謝している。この松井大将は上海から南京に進撃した際、「南
京大虐殺」を起こしたとして、東京裁判で死刑にされた。「南
京大虐殺」が事実かどうかは、こういう事実を丹念に見ていけ
ば、自ずから明らかとなる。[b]

 1938年秋、ナチスのユダヤ人排斥が激化すると、上海にもユ
ダヤ人難民が流入するようになった。当時、ユダヤ難民がビザ
なしに上陸できたのは、世界で唯一、上海の共同租界、日本海
軍の警備する虹口地区だけだった。ヨーロッパからのユダヤ難
民はたちまち1万8千人に膨れあがった。

 犬塚惟重・海軍大佐は日本人学校校舎をユダヤ難民の宿舎に
あてるなど、保護に奔走した。のちにユダヤ人から感謝の印と
して送られたシガレット・ケースがエルサレムの大虐殺追悼記
念館に保存されている。[c]

■9.新たなる「偽りの正面」■

 1945年に日本は降伏し、軍人も居留民も着の身着のまま、上
海を引き揚げた。しかし、戦乱はなおも蒋介石軍と共産党軍の
間で続いた。1949年5月27日、上海はついに共産党軍の手に
よって「解放」された。蒋介石はすでに上海から50万の兵を
伴って、船で台湾に逃れていた。

 上海が「解放」されると、「偽りの正面」を築いた外商たち
も、これらの建物を残したまま、すべてどこかに消えてしまっ
た。サッスーン・ハウスは、今は和平飯店北楼というホテルに
なっている。

 夜、バンドの一角にあるレストランで食事をした。窓の外に
見える石造りのビル街がライトアップされて美しい。このレス
トランは英米人の溜まり場らしく、客のほとんどは白人である。
なかにはイブニング・ドレスで着飾ったレディまでいる。ウェ
イターやウェイトレスは流暢な英語を話す中国人。戦前の租界
時代は、まさしくこんな風景だったのだろう。

 こんな「偽りの正面」の光景は過去のものとなった、と思い
つつ、窓の外を眺めていると、右手には団子を二つ串刺しにし
たような奇妙な形のTV塔が見えた。アジアで最も高いと言わ
れる「東方明珠塔」である。その横には超高層ビルの壁面全体
が巨大な画面となって、ひっきりなしに広告を流している。現
在の上海は、まさに繁栄する社会主義市場経済体制のシンボル
である。

 レストランの中の過去の租界そのままの光景と、窓の外に見
える現代上海の光景とを見比べているうちに、ふと思った。こ
のレストランで働いている中国人のウェイターやウェイトレス
たちの主人は、租界時代は富裕な外国商人達だった。その主人
が、現在は共産党幹部や富裕な中国人実業家や外国人ビジネス
マンに替わっただけではないのか。

 共産党政権は、毛沢東の言うように「銃口から生まれた」も
ので、これらのウェイターやウェイトレスたちの民主的な投票
によって選ばれたものではない。租界時代も現在も彼らは自分
の国の主人公ではない。とするなら、超高層ビルの建ちならぶ
現代の上海も、もう一つの新しい「偽りの正面」に過ぎないの
かもしれない。

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