「偉い人」とはどのような人なのでしょうか?

 

自分で「偉い」と言って、人にそのことを強制することは噴飯ものでしょう。

例を挙げるとしたらクレーマー(客)があります。

店員に対し、「お客様は神様だろう!」と因縁をつける人。

まさに、このタイプの人です。

「お客様は神様」というのは、お店側の考え方であって、あなた(客)自身が「神様」ではありません。

むしろ、神様なら、「自分は神様だ」と威張ったりはしないでしょう。

コロナ禍では、この「自称神様」が激増して、ドラッグストアや他の店舗で大迷惑でした。

 

私が考える「偉い人」は、周囲の人が「偉い存在」として扱ってもらわれる人だと思います。

こちらは望みもしないのに、そのように扱ってもらえる人、でしょう。

尊ばれる存在、とも言えます。

その人自身の良さを周囲が汲み取り、丁寧に扱う(尊ぶ)。

そこで「偉そうな態度」を取れば、その周囲の評価は変わるでしょう。

「偉い(尊い)」のに「偉そうでない(尊ぶらない)」から価値があるのです。

 

教員(先生)も、ある程度 自分自身が意識しておかないと危うい職業です。

「先生、先生」と呼ばれて、生徒のみならず、保護者も(少なくとも表向きは)大切にしてくれます。

何だか自分が「偉くなった」と誤解する危険性は絶えずあるのです。

(この誤解に満ちた教員は数多く見てきました。)

ちなみに、生徒に対して「教え子」という表現が個人的に嫌いです。

「あなたは、その生徒から教えられていないのですか?」と聞きたくなるからです。

 

職業柄、立場(身分)的に、様々な要因で「上げられる=大切にされる」ケースは多々あるでしょう。

自らがその状況だったら、どうするべきか?

答えは難しくありません。

自分自身が同じように、周囲の人を大切に扱えばよいでしょう。

少し大げさなくらいでも良いかと思います。

(他人への配慮は、いつも不足気味です。)

上がりがちな「自分の頭」をしっかり下げて、遜る。 

 

教育の現場で「生徒の目線に立って」と言われることがあります。

そのためには、ほとんどの教員は屈まないといけないでしょう。

少なくとも、あなたの通常の目線の延長には生徒は いません。

 

「〇〇と煙は高いところが好き(高いところへ上る)」とは、まさに金言です。