「大人の古事記講座」(60)国生み、伊予の二名島4

  

 伊予の二名島4 土佐、タケヨリワケ(建依別、分け)

  

  はじめに

   

 前回のアワ、オオゲツヒメが高天原の大物であり、近畿の主に関係していると解いた。今回のトサ(土佐・土左)のタケヨリワケは、タケ族について、害着の説明をすることになる。

   

 先に書いている「やさしい古事記講座29」では、タケ族の分布なども取り上げて、高天原における大きな勢力と軍事面を担当していた解いている。

   

 この記事では、国譲りの時に出てくる、タケミナカタ(御柱祭で有名な諏訪大社の祭神)の説明が抜けているが、国生みの時には、まだ、出てこないので出た時にする。

   

 ただ、諏訪大社の御柱祭などを調べると、建族は、狩猟と木工も得意な族であったと、分かって来た。タケ族も、縄文以来の日本文化を継承した一族である。

   

 だから、先に縄文文化の神で説明した家屋の神、オオヤビコなども、一族であろう。史学では余り取り上げてないが、何時も日本文化、社会の中心にいた一族のようである。

   

 では、もう少し詳しく、「やさしい古事記講座29」を読んで頂こう。

<* 最後に29のコピーを載せる>

   

   

  

 やさしい古事記講座29 国生み8 二名島4 土佐 建族

   

http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/389602/

   


   

 この解明で、宇摩説の建国三神の解明、古事記冒頭の神、天之御中主神、高御産巣日神(タカ=タケ。九州中心の族)、と神産巣日神(近畿中心、クシ族)が補足される。

   

 国生みの建族は、この土佐と、吉備と、筑紫のヒノクニ(肥国)と、クマソ(熊襲・熊曾)の主になっている。宇摩説の高天原の西南と海を隔てた東北の主なのである。

  

 なお、建族は、筑紫(九州の南部二国)の氏族であることは、伊予の二名島の後に出てくる筑紫島の国生みで書くので、後で、もう少し詳しい話になる。

   

<2012,2、8、「大人の古事記講座」60、国生み、土佐>



<29のコピー>

 伊予之二名島の最後、土佐国、建依別について、書くことにする。

 「土左(佐)は、建依別」、とある。解説では、「建依別は、勇猛な男性の意」と、ある。宇摩説では、著書1で、建(たけ)は、建族の意味だと書いている。この一族は、九州南部が地盤であり、卑弥呼の騒動の元になっていたようだ。

 国生みで、建族の配置を見ると、国生みで、「九州南部と、岡山、土佐」に配置されている。この上に、神生みでも出てくるので、高天原で相当の勢力を有していた事が判る。

 タケは、母音変化をすると、「たか・たき・たく・たけ・たこ」になるが、タカ・タケがよく、名として使われている。こうなると、最初の、天之御中主神に次ぐ、「タカミムスビ、(高御産須日)」も、この一族の可能性が非常に高い。

 そして、この神は卑弥呼(天照大神)の元にも居るから、卑弥呼を共立した有力者一人であろう。タケ族は元々、高天原の中枢に居たのだ。高天原が武力を持たなかったのは、この族が後ろに居たらと言う、事も考えられる。

 四国の国生みに残される、タケ族は、一人なので、後に出てくる所で書くことにして、ここでは、簡単に書くことにする。

 建依別とは、「建族依り、分かれた」と言う意味になる。建族は、総本家だったであろう、高天原の「高」と、九州に残った本家の二つがあろう。そして、「建」を残す事から、九州本家に関係する人物だと、想定している。

 後の話だが、「大国主の国譲り」を、建雷神が、最後に達成するのも、何だか象徴的だ。高天原の将軍と言った所だろう。そうなると、倭人伝にある、「一大率」は、建雷神の可能性が、高くなる。

 倭人伝に、「諸国が、畏・憚(いたん。かいこまり、はばかる)した」とある。この、一大率は、古事記が残す、建雷神の業績を想起させ、思い起こすと、倭人伝の、「一大率は、建雷神」で、ほぼ、決定的だ。

 このように、建族は南九州に居て、高天原の成立から大きく関係して、総本家が高天原に居たとなれば、日向の地名も、単に、日の国の向かいと言うだけではなく、朝晩、礼拝すらしていた事を、思わせる地名となる。

 宮崎県に、後の古墳が多いのも、これ等に関係していた有力者だと思われる。高天原の関係した物は、後の朝廷が抹殺をしているから、判らなくなった物だろう。

 とにかく、土佐で、紹介された建依別の神は、頂点を、「高御産巣日神」とする、建族の関係者である。建雷神は、この一族であり、日本の秩序を取り仕切る、大将 軍の地位にあった。

 建雷神の業績は多く、簡単に書いた。今後も多く出て来るので、これ等を読んで、補足されたい。なお、宇摩説が、「建を、一族」とした最初である。

 古事記による、冒頭の日本建国は、三人が紹介されている。これは、中国 ・四国、近畿、九州の実力者が賛同して、成立した物だ。そして、目に見えるものを仕切ったのが、高御産巣日神であった。

 この高御産巣日神の基盤が、九州南部に勢力を持つ、建族(熊襲)であった。これを、名前が残していたと言うのが宇摩説である。最初に上げた、現在の通説と比較すると、革命の古代史と言う事が良く判るだろう

 次回は、伊予之二名島(四国)を、特別に纏める予定である。今日は、体調がもう一つなので、この辺で終る。

<以上>