大人の古事記講座58 国生み 伊予の二名島2 讃岐

   

  はじめに

   

 今日は体調が悪くて、一日寝ていて、6日の、0:21分頃に目覚めた。風引きで気だるいので寝ていたので、特別重症ではないのだが、記事が書けない。

   

 予定の記事は、「やさしい古事記講座27」の話であったので、この紹介だけ載せる。

   

  

 やさしい古事記講座27 国生み 伊予二名島3 讃岐

   

http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/387519/

   

   

 上の記事を読み直して、補足・追加した。これは、2007年の記事だが、時事問題も書いている。そして、今も、同じ状態でり、現在書いている時事の記事と変わらないことに気づく。

   

 では、以上で終わる。


* 読み直して、上記(URL)のブログのコピーを下に追加します。


<コピー 本文>


 伊予之二名島と、伊予国、愛比売、倭人伝の、壱與などの説明をしてきた。これらの解明から、国生みでも、古事記は四国の重要性や、高天原(邪馬台国)の場所を説明をしていたと判る。

 しかし、本居宣長を継承する史学学会では、一向に、明治以後の様々な学問を利用した、古事記の科学的解明を行ってない。そして、戦後は、古い解釈を理由に、歴史では無い、天皇 家の為に書かれた創作(虚構)だとして、歴史から葬ったのだ。

 古事記は史学者の創作(架空小説)説なのだが、創作でほとんど知られない、宇摩を中心とした実在の地名に偶然一致するだろうか、それも、一つや二つではない。

 地名の数は、100や200ではない。おぼろげな記憶だが、確率論では25分の1から、有効だったと思う。だから、一つの一致でも確率論で言うなら、無縁でない。宇摩の多くの一致は絶対的な史実と言えるのだ。

 このために、学者は、一つの一致でも、論拠にしている。この事実から、宇摩説の解明は絶対的な、正解だと統計学では証明される。この古事記の解明で、日本人の大元である、『古事記』が、歴史学の原点として復活する事を望むのである。

 宇摩説の解明には、矛盾が無いし、創作、想像、空想の部分が無い。しかも、考古学や、民俗学、言語学、地名学など、多くの学問と整合する。古事記が史実だから、解くと、そこに証拠の地名などが残るのだ。

 これらが理解できれば、宇摩説が、本居宣長以来続いていた、古事記の基礎的解釈が、新しく再構築されていると判るだろう。しかも、現在の日本社会の混乱が、新しい古事記解釈(宇摩説)で日本らしい解決できるのだ。

 今の日本は、左右の人々が、根本的に違った思考の基礎を持っている。同じ日本人と言っても、北朝鮮 を推薦した、小田実 、左翼の大江健三郎 などに近い人々が居て、同じ日本人と思えない行動や思考をするし、バラバラの人が大勢居る。

 日本の現状打破は、日本人としての基礎を共有しないと、バラバラの日本丸では沈没するか、火事(内乱、周辺国の傀儡)になるか、植民地か、崩壊する。日本人の共通認識には、古代日本から続く、日本人の精神や、文化しかないのだ。

 だから、古事記が、正しく解かれて、皆が本当の日本の歴史を知る必要がある。この先導の役を担うのが、「宇摩説」である。今回の解説をよく読んで、日本人の共通認識となるように、将来の日本を大きく立て直すために、役立てて欲しいと思う。


  古事記解釈伊予之二名島、讃岐について
 昨日までに、伊予之二名島、伊予国、愛比売などが終わった。
今回は、讃岐(さぬき。香川)の国の飯依比古(いいよりひこ)である。

 飯依比古は、食にちなんだ名、という(講談社)。この神は、他に系譜が無く、まったく、解釈に困る神であり、岩波・角川などにも解説が無い。

 宇摩説では、古事記の頃に、創作された名ではないかと、疑っている。先に書いたように、四国は弥生 時代に、三つであった。そして、讃岐の弥生出土は、伊予(愛媛 )と、阿波(徳島)に多くが共通する。

 
正確に言えば、伊予(愛媛 )の燧灘に面する地域と、讃岐(香川)の燧灘に面する地域がほとんど同じで、伊予の西に行くと、広矛文化があり、讃岐の東に行くと、銅鐸の文化になっている。

 この事から、四国の文化圏は三つで、三人(神)であった。これは、倭人伝で、言えば、邪馬台国の官として、「官に伊支馬(いしま)あり、次に、彌馬升(みます)あり、次に、彌馬獲支(みまかし)あり」とある。

 もう一人、次にも『ぬかて』という官が居るが、「ま」が無く、船に関係した官であろう。イシマは、みしま、つまり、宇摩郡であり、ミマスは「美馬・洲」で、徳島の吉野川を指している。ミマカ シは、三間・河岸で、四万十川の様子を示す

 今度の平成合併までは、徳島に美馬郡や美馬町があり、愛媛 には三間町が残っていた。弥生の頃の阿波・宇和は、美馬・三間が中心地であったのだろう。共に大分上流になる事でも一致している。

 伊支(いしま)あり、次に、彌升(みます)あり、次に、彌獲支(みまかし)の三人に、共通する「」は、「宇摩(うま)」の「」が省略された「」である。「ま」については、著書他、ブログでも何度か書いている。
 
 以上のように、倭人伝も、「三人の官」を解くと、四国の状況が判ってくる。そして、是までの古事記の解明に一致するのだ。だから、弥生 時代の四国は、三つの国だったと、考古学、倭人伝から言えるのだ。

 民俗学の分野でも、燧灘の東西に、同じように藁で作る、「龍」と、「鳳凰」の山車が残ることを、先に紹介している。この燧灘を囲む北四国の地域までは、邪馬台国(高天原)であったのだ。これを、「日、内、灘」の言葉で残している。

 だから、讃岐の国と、飯依比古は、古事記の編纂の時に、追加された、迷彩用の国と神だ、判断する。明日は、粟(阿波)に進みます。

 昨年の解説は書きURLでリンクしてください。

「卑弥呼の謎を解く(15) 古事記神話
http://kabu003himiko.iza.ne.jp/blog/entry/18817/
 四国は三つだった。

   

<以上>

   



* このブログにコメントが有って、イヨ・アワ・トサでサヌキだけが、3音との指摘がありました。上記の記事を補足する内容です。

   


* 時間があれば「やさしい古事記講座」を通して読んで下さい。大人の古事記講座で追加も有るが、基本的には変っていません。