2002年のサッカーワールドカップは日本と韓国の共同開催となりました。


何故日韓共催になったのか?といえば、当時南北米と欧州で交互に開催されていました

1986年、当時のFIFA 会長のアベランジェ氏が、アジア-アフリカ地域での開催案を打ち出しました。

その後アベランジェ会長から打診を受けた日本サッカー協会が検討をして、1989年11月に日本開催を表明して招致活動を開始しました。

日本は、FIFAワールドカップをより平和の祭典としてメッセージ性のある大会にしよと提案して、トヨタカップルなどの開催実績と、「平和と安全」「豊かな経済」「政治的安定」「自由と民主主義」「世界の先進国」である点を示して日本で開催する意義を謳っていきました。


これに対して、日本がやるのならと「アジア初」をと日本に送れること4年後1993年11月に韓国もワールドカップ招致に立候補しました。

日本に出遅れた韓国は、FIFA副会長の鄭氏を先頭に南北朝鮮共催を打ち出すなど(スポーツへ政治的な思惑を持ち込む愚かしさ)を使い対抗してきました。


アジア初の開催を目指す日本と韓国の一騎打ちとなりました。


1995年9月日本はFIFAにワールドカップ開催提案書を提出し、11月にFIFA視察団が日韓両国を訪問して、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックし、視察団は「日本は施設も、歓迎も、技術も素晴らしい」と、日本を高く評価しました。


開催国は当初1996年6月1日、FIFA臨時理事会で、会長・副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定でしたが、FIFA会長選を控え、日本単独開催を推していたアベランジェ会長派と、ヨハンソンUEFA会長を次期FIFA会長にしたい2派が対立し、アベランジェ氏の続投を阻止したい反アベランジェ会長派は日韓共催を打ち出した。

南米のアベランジェ会長派はあくまでも日本単独開催を支持した為、アフリカの理事らの動向が投票を左右事になりました。

直前に、欧州理事派が欧州各国のリーグに選手を受け入れてもらう立場のアフリカ理事らの票を押さえて、多数派となりました。

開催国を決定する投票前日の理事会前に行われたパーティーの歓談で敗北を悟ったアベランジェ会長は、自らの権威を保つ為に、日韓共催を自らの提案とする事を決断して、5月30日投票結果を待つ日本招致委員会に対して非公式に日韓共催案を打診させました。

打診したブラッター氏の口ぶりは切羽詰まった感じで、打診というよりも、要請という形でした。

その後、FIFAから届いた正式文書には、既に韓国側は日韓共催を受け入れを回答した。日本の回答をたずねたいと書かれていた。

日本側は2時間ほど協議したが、結論は出ませんでした。

もし日韓共催案を拒否した場合には韓国単独開催になるのは必至で、やむを得ず日韓共催案を受け入れる事を決断する形になった。

その後の理事会でアベランジェ会長が日韓共催を提案して満場一致で日韓共催が正式に決定された。



これはあくまでも表向きの流れ。

そもそも、FIFA規約では、単独開催が明記されていましたから、UEFA理事らの日韓共催案を出すことがおかしな話しなのです。


そもももこの当時の韓国にはワールドカップを開催できるだけのスタジアムも無く、経済的な不安定さといい、開催できる環境は整っていませんでした。

初めから日韓共催を狙っていたのです。

単に日本に先を越されたくないっていう想いから始まっています。

まずこの時にFIFA副会長になった鄭夢準ですが、副会長選において多額の裏金をつかい、酒と女というありとあらゆる手段を使って副会長という地位を手に入れたところから始まります。

そして反アベランジェ会長派のUEFA理事らに日韓共催案を提示させるようにしたのを皮切りに、アフリカ理事らへも同時に裏金を渡し、酒と女で票固めを進めました。

その結果日本は共催を受諾せざるを得ない状況になってしまいました。


ワールドカップ組織委員長には鄭FIFA副会長が就任したが、この件に関して当時のドイツのジャーナリストマーティン・へーゲレ氏は「各国の担当者に高価なものを送ったり、娼婦を抱かせようとした」と主張しましたが、鄭副会長はベッケンバウワー氏へ揉み消しを依頼しましたが、一蹴されました。


因みに鄭夢準ですが、選挙演説でFIFA副会長の地位を利用して審判を買収したとほのめかす発言をしていますし、2015年には規律違反をして資格停止と罰金処分を受けました。


で、実際に開催に漕ぎ着けるまでに1997年、アジア通貨危機で韓国はデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入り、日本を中心とした金融支援を受けました。

一時は景気が持ち直しましたが、対米輸出に頼ったため2001年の同時多発テロで再び経済は落ち込み、スタジアム建設が遅れをみせました。



なんとか開催に漕ぎ着けましたが、韓国といえばフェイクニュースの国ですよね。

なんと、本来なら韓国単独開催が出来るはずだったのに、日本側が多額の裏金を渡して共催にさせたと報道したのです。

韓国のスタジアム建設の時IMFを通じて3000億円を融資しましたが、1円も返済してきません。

共同開催だから返済するつもりはないと言い張っています。

そして、大会名の2002FIFAワールドカップJapan/Koreaだったのを、何故日本が先なんだと難癖をつけてKorea/Japanに変更させました。

単にアルファベット順の表記上JでKだからJapan/koreaだったのだが・・・

それを決勝は日本で行うという事を条件に日本が折れる形でKorea/Japanに変更させました。

それだけではなく、日本国内では2002FIFAワールドカップ日本/韓国と表記する予定でしたが、それを韓国/日本に変更しろと難癖をつけてきました。

もし変更しないなら決勝も韓国で開催するぞと主張してきました。

本当に何様なんだって感じですよね。

そこで日本側は2002FIFAワールドカップと国名を抜いて表記する事に統一する事になりました。


どんだけ自分勝手なんだって感じですが、日本もお人好しすぎですね。



そんな韓国は味方につけた欧州理事らへの恩を仇で返しました。



例えば予選リーグを勝ち抜くために韓国選の前の夜にポーランドやアメリカやポルトガルの選手達が宿泊するホテルの前で夜通し騒いで、選手たちを不眠状態にしました。


韓国人のマナーの悪さが現れています。



そうして手に入れた決勝トーナメント進出です。

イタリア選ではこんな幕が出されました。


イタリア選では韓国のラフプレーが目立ちました。

タックルや肘打ちにカードが出されるどころか、ファールすら出されませんでした。



これは明らかに蹴ってますよね。

その後、李天秀は後頭部を蹴ったと認める発言をしています。

その後、トッティは韓国DFにペナルティエリア内で倒されますが、まさかのシュミレーションで2枚目のイエローカードが出さ退場させられました。

そして、数的有利になった上、長時間のロスタイムが与えられ韓国がイタリアに勝利しました。


続く準々決勝では、スペインの2つのゴールが取り消され韓国が勝利しました。


そして、準決勝ドイツ戦では、こんな幕が掲げられます。

ヒットラーの子孫達は帰れ

どこまで行っても救えない考え方をしますよね。


それでもドイツには勝てませんでしたけど・・・


史上最悪のワールドカップといわれている由縁の日韓ワールドカップ。




日本側で開催された国々のチーム、マスコミ、サポーターは日本での歓迎や日本人の対応に称賛をしてくれましたが、韓国側で開催された国々、特に韓国と対戦したチームは酷評しています。




そして韓国チームはそれ以後世界から嫌われています。



ドイツワールドカップで韓国チームは、ドイツ国内でのキャンプ地を得られませんでした。

全て断られてしまったのです。



ドイツ国内で宿泊先すら断られ、結局ドイツ政府に仲介され、ケルンに宿泊する事が決まったのですが、キャンプは拒否され練習場が確保できない多投を受けました。


まさにブーメランですね。




キャンプ地が見つからず直前までスコットランドでキャンプをしなければならなかった。

トレーニングマッチも対戦相手が0で、FIFAの仲介でようやく相手を割り当ててもらうのがやっとで、ノルウェーとのトレーニングマッチ試合後のユニフォーム交換を拒否されるという始末。

しかも、スコットランドからノルウェーへ移動してのトレーニングマッチ、試合後ドイツ国内で宿泊先が決まらないため、再びスコットランドへ戻り、次のトレーニングマッチもスコットランドのエジンバラでのガーナ戦。

ワールドカップ本戦の週間前にようやくケルン入り。

という、非常に厳しいスケジュールの中での本戦。



これが韓国代表の、ていうか、韓国の評価です。


そして、結果は予選リーグ敗退。


2002日韓ワールドカップでの4位というのが、審判買収の賜物であるという証拠です。




こんな状況にも関わらず、韓国人は学ばない。

3月に日韓戦が開催されましたが、結果は0-3での敗戦。

ラフプレーで富安の歯を折る蛮行は、世代交代しても変わらないんです。


染み付いた民族性は世代が変わっても変わることはありません。

それはスポーツの世界だけではない。

韓国の民族性です。