平安時代末期、平清盛は娘の徳子を第80代高倉天皇に嫁がせ皇后にしました。
治承3年(1179年)清盛は後白河上皇を幽閉して院政を停止させると、翌年には高倉天皇に退位を迫り、徳子の産んだ自分の孫である生後1歳3ヶ月の言仁親王(ときひとしんのう)を第81代安徳天皇とします。
平氏の最盛期を迎え、清盛は朝廷の政治をほしいままにし、贅沢な生活をするようになりました。

しかし、平氏の時代は長く続きませんでした。

後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)は不満を抱き平氏追討の令旨(りょうじ/皇族が出す命令)を発します。
以仁王は清盛と高倉上皇が共に厳島神社に出向いた隙を突いて、源氏と共に挙兵を計画をしました。
しかし、この計画は事前に漏れ、以仁王と源頼政は逃れる途中で平氏の官軍に討たれてしまいます。

この情報が伝わると、源頼朝や源義仲らが各地で挙兵して源平の合戦が始まりました。

治承5年(1181年)2月4日清盛が没します。
後白河上皇は清盛が没すると、再び院政を復活させ先制政治を敷きはじめました。




源平の合戦が始まると、鎌倉を拠点とした源頼朝が頭角を現していきます。

寿永2年(1183年)後白河法皇は3歳の第82代後鳥羽天皇が践祚した。
そして、越中、加賀で平氏を破り京都へと迫りました。
平宗盛は幼い帝を擁して、三種の神器と共に西へと落ち延びていきました。

義仲には、平氏追討よりも、都の治安回復でしたが、都内では略奪が横行し、義仲の兵の中にも略奪を行う者も現れ、たまりかねた後白河上皇は義仲を呼び出し義仲を平氏追討を命じる。
義仲は西国で苦戦し、戦線が膠着状態となる中、義経と範頼が数万の兵を率いて上洛するという情報が飛び込んでくる。
驚いた義仲は平氏との戦いを切り上げて少数の軍勢で帰京する。
義仲は頼朝の上洛を促した事と、宣旨を下したことを後白河上皇へ痛烈に抗議し、義仲の敵は平氏から頼朝へ変わり、頼朝追討の院宣(上皇の命令)の発給を要求した。
後白河法皇は義仲軍より多くの兵力を集めた上で、義仲へ最後通牒を行う。
「ただちに平氏追討のため西下せよ。院宣に背いて頼朝軍と戦うのであれば、宣旨によらず一身の資格で行え。もし都に逗留するのなら謀反と認める」という義仲に弁解の余地を与えない厳しい内容でした。
これに対して義仲は「君に背くつもりは全くない。頼朝軍が入京すれば戦わざるを得ないが、入京しないのであれば西国に下向する」と返答した。
が、時すでに遅く、追い詰められた義仲は法往寺を襲撃、範頼・義経軍が目前に迫り開戦を余儀なくされ、京都の防備を固めるが、一連の行動によりすでに人望を失っていた義仲に従う兵はなく、惨敗を繰り返し、義仲は琵琶湖畔の粟津まで逃げますが討ち死にします。

源氏内の対立で、一時期勢力を盛り返した平氏でしたが、一ノ谷戦いと、屋島の戦いで次々と敗れ、文治元年(1185年)3月24日壇ノ浦の合戦を迎えました。
潮流の方向と速度を利用した源氏が優勢になった上に、源義経の奇策によって平氏は敗色が濃くなった。
全軍の総指揮していた平知盛以下平氏一門はことごとく討ち死にして平氏は滅亡しました。
殲滅戦の中、清盛の妻である乳母の二位尼時子に抱かれ、6歳の安徳天皇は三種の神器もろとも入水し、崩御となった。
安徳天皇は平氏の血を受け継いだ事により天皇となり、平氏の血を受け継いだ為に幼いうちに非業の死を遂げなければならなかった悲劇の天皇となった。
安徳天皇と共に海中に沈んだ三種の神器は、徹底して捜索した結果、鏡と勾玉は見つけ出され回収されたが、剣は失われてしまいました。 
しばらくは宮中にあった別の剣を三種の神器として祀っていました。


壇ノ浦で平氏を滅亡させると、武士はより強い力を持つようになり、特に鎌倉に拠点を置く源頼朝の力が大きくなります。


頼朝は、内挙を得ずに朝廷から官位を受けた武士らに対して、任官を罵り、京での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じます。




平氏追討侍所所司として義経の補佐を務めた梶原景時から「義経はしきりに追討の功を自身1人のものとしている」と記した書状が頼朝に届きました。

一方、義経は先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛・清宗父子を護送して鎌倉に凱旋しようとしました。
しかし、義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉へ入れ義経は鎌倉郊外の満福寺に留め置かれました。
義経は、頼朝に対し自分が叛意がないことを頼朝の側近大江広元に書状を託しました。(腰越状)
しかし、頼朝の怒りを買った原因は、許可なく官位を受けたことのほか、平氏追討にあたって軍監てして頼朝に使わされた梶原景時の意見をきかず、独断専行で事を進めたこと、壇ノ浦の合戦後に義経が範頼の管轄である九州へ越権行為して仕事を奪い、配下の東国武士たちに対しても僅かな過ちでも見逃さず、これを咎めたてするばかりか、頼朝を通さず勝手に成敗し、武士達の恨みを買うなど、自専の振る舞いが目立った事。

主に西国武士を率いて平氏を滅亡させた義経の多大な功績は、恩賞を求めて頼朝に従っている東国武士達の戦功の機会を奪う結果になり、鎌倉政権の基盤となる東国御家人達の不満を噴出させた結果になった。
特に前者の、許可なく官位を受けたことは重大で、まだ官位を与える地位が無い頼朝の存在を揺るがすものでした。
また義経の性急な壇ノ浦での攻撃で安徳天皇や二位尼を自害に追い込み、朝廷との取り引き材料となり得た三種の神器の剣を紛失した事は頼朝の戦後構想を破壊するものでした。

最後まで鎌倉入りを許されず、平宗盛父子らを伴って再び京都へ帰るように命じられ、義経は頼朝を深く恨み「関東に於いて怨みを成す輩は義経に属くべき」と言い放った。
これを聞いた頼朝は義経の所領を全て没収しました。


義経は帰京中、近江国で宗盛父子を斬首した。


義経は後白河法皇へ頼朝の追討の院宣を奏上するも、義経に従う勢力はなく、逆に義経追討の院宣が出される事になりより一層窮地に陥ってしまいました。


頼朝は、京都側が義経に力を貸すなら大軍を送ると朝廷や貴族達を恫喝します。
京都にいられなくなった義経は藤原秀衡を頼って奥州へと向かい平泉へと身を寄せます。

文治4年(1188年)義経の奥州潜伏が発覚すると、藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すように朝廷に奏上した。
藤原基成と藤原泰衡に義経追討の宣旨が下された。
文治5年(1189年)鎌倉方の圧力に屈した藤原泰衡は衣川の義経を襲撃して自害に追いやった。

頼朝は、これまで藤原泰衡が義経を匿ってきた事は反逆であるとして、藤原泰衡追討宣旨を出すように朝廷へ求めましたが、勅許はされませんでした。

しかし、大庭景義の「軍中は将軍の令を聞き、天子の詔を聞かず」という進言により、勅許を待たずに1000騎を率いて鎌倉を発し、奥州攻めをを行い、途中遅れて朝廷から泰衡追討宣旨が届いた。

結局、泰衡は部下の河田次郎に討たれ、頼朝の元に首が届けられたが、河田次郎も罪にとわれ斬首された。
そして、頼朝は奥州を平定して鎌倉に凱旋した。
この奥州合戦での働きによって頼朝と坂東武士達の主従関係を強くする事につながりました。

鎌倉に戻った頼朝に、奥州征伐を称える書状が下り、頼朝に按察使の任官を打診され、勲功のあった御家人の推挙を促されましたが、頼朝はこれを辞退しました。
その後、奥州で小さな乱が起こりますが、足利義兼、千葉胤正らに出陣を命じて鎮圧し、井沢家兼を陸奥国留守職に任命し、在庁官人を指揮させ、奥州への支配を強化した。

建久元年(1190年)いよいよ頼朝は上洛すべく鎌倉を発ちます。
千余騎の御家人を伴い六波羅に建てた新邸にはいりました。

そして、後白河法皇に拝謁し、余人を交えず長時間会談した。
そして、権大納言、右近衛大将に任じられました。
しかし2ヶ月ほどで両官職を辞した。
両官職を辞したのは、いずれの官職も公事の際に出席しなくてはならず、鎌倉へ帰る事が許されないからだとみられています。
頼朝は在京期間は40日程でしたが、後白河法皇との会談は8回を数え、新たな朝幕関係の局面を迎えました。
頼朝は、あくまでも鎌倉を拠点としていく事を念頭に考えていたのです。
翌年、建久元新制で頼朝の諸国守護権が公式に認められました。

建久3年(1192年)3月、後白河法皇が崩御して、その年の7月即位した後鳥羽天皇によって「征夷大将軍」に任じられました。



頼朝が望んだのは大将軍でした。
それを受け朝廷では「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」ね4つが提案して検討していましたが、惣官や征東大将軍は過去の事例から凶例であると斥けられ、上将軍は先例が無かった事から、坂上田村麻呂の征夷大将軍が吉例として選ばれました。

名実ともに、日本を治める為の準備が整いました。
源頼朝は卓越した処世術と政治力、時を読む能力、たとえ兄弟であろうとも容赦はしない姿勢。
御恩と奉公でも強固な主従関係で鎌倉幕府は始まりました。