ロシアの強引な行動や、要求についに日本は戦争を決意せざるを得ない状況になってしまいました。


明治天皇も、もう戦争という手段しか残っていないのか?と、当時の総理大臣伊藤博文に御下問をされるのです。
憲法的には、議会で決まった事を天皇が覆すのは出来ないのですが、明治天皇は戦争回避の道を探って欲しいと御下問され、伊藤博文ももう一度議会で議論をしますと了承して、議論を再開ささました。



しかし、やはりもう戦争回避は不可避という結論になりました。


1904年(明治37年)2月4日、日本は御前会議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り軍事行動に移ることを決議しました。
そして、御前会議で日露国交断絶とロシアとの戦争を明治天皇へ奏上し、裁可を受けます。


明治天皇はこの前後食事も喉を通らないほどに悩まれていたそうです。
御前会議後、奥に戻られた明治天皇は「今回の戦いは朕の意志にあらず、然れどもこれここに至る。これを遺憾ともすべからずなり」「万事一蹉跌を称せば朕如何に祖宗に謝し、臣民に対するえん」と述べらました。
戦いは私の意志ではないがやむおえない状況になってしまった。もし戦争に敗れるような事になったら先祖たちや国民たちに申し訳ないという事を仰い、人知れず涙をお流しになったそうです。
そんな明治天皇の想いはありましたが、戦争が開戦と決まってしまいます。



しかし、ロシアとの差は大きなものがある事を日本はわかっていたので、日本は周到な準備を進めていきます。




日英同盟は前回に語ったとおり、ヨーロッパ筆頭の超大国です。
それと同時にアメリカとも外交を行い、友好的関係を築きます。
アメリカ大統領はセオドラ・ルーズベルトさんでした。
この大統領は親日家の大統領でもありました。
日本からは金子堅太郎をアメリカへ送り、日本の戦争遂行を有利にすべく外交交渉を行います。
金子堅太郎さんはハーバード大学卒業していおり、セオドラ・ルーズベルト大統領とは同窓生だったので、上手く話しが進み、日露戦争終結の際の仲裁役も務めてもらえるような約束を取り付ける事ができました。




その頃、日本が清国から独立させた朝鮮半島は大韓帝国を名乗ります。
そして大韓帝国は中立宣言を出しました。
しかし、日本もロシアもその中立宣言を却下していました。
中立宣言が認められるとにほんもロシアも朝鮮半島に入ることができなくなるのです。




2月6日、栗野慎一郎駐露公使がロシアに国交断絶を通告しました。




日本は三国干渉で返還させられて、ロシアに占領させられた遼東半島を取り戻す戦いを仕掛けていくようになります。



そして2月8日、日本軍が旅順のロシア艦隊に奇襲攻撃。
この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが、大きな戦果はありませんでした。
同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が日本海軍の第2艦隊瓜生戦隊の護衛を受けながら、朝鮮の仁川に上陸します。
翌2月9日、「露国に対する宣戦の詔勅が出されれ、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込みました。
10日ロシア政府に宣戦布告を行いました。


そして日本軍はソウルに侵攻して大韓帝国宮廷を占領します。
占領といっても戦闘行為の上で占領したわけではなく何故日露が戦争を開始するのかを悟し、2月23日ソウルを拠点として戦う事を認めさせ、日韓議定書を交わしました。
日韓議定書の内容は
・外国の侵略時に日本に便宜を与える
・日本は大韓帝国の独立を保証する
・日本の承認無しに外国と条約を結ぶ事を禁止する
という内容でした。

何故ここまで朝鮮半島に日本が独立をさせたかったかというと、別に朝鮮半島を日本が領土としたかった訳ではなく、中国やロシアの傀儡国の朝鮮では日本の安全が脅かされるので、真の独立国として存在していて欲しかったので、ずっと朝鮮半島の近代化支援を行って来ました。にも関わらず清国の属国関係を続けようとしたり、ロシアと裏取引きをしたりしてきたり、一向に進まない近代化など朝鮮王朝では信頼性が無かった為、このような議定書を作成実行させようとしたのです。
大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。大韓帝国内でも李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では独自改革は難しいと判断した新歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

一方、高宗や両班などの旧李朝支配者層は日本の影響力をあくまでも排除しようと試み、日露戦争中においてもロシアに密書を送るなどの外交を展開していった。戦争中に密使が日本軍艦により海上にて発見され、大韓帝国は条約違反を犯したりしていました。


3月6日上村彦之丞海軍中将が率いる装甲巡洋艦「出雲」、「八雲」、「吾妻」、「磐手」、「浅間」、防護巡洋艦「笠置」、「吉野」がウスリー湾方面からウラジオストク港に接近して薄氷の外から造船場、砲台、市街地に向けて約50分間砲撃した後引き上げました。



この頃、日本は深刻な戦費を賄えなくなってしまいました。

日本銀行副総裁高橋是清がイギリスや、アメリカへ出向いて様々な戦費調達を行います

日露戦争を世界的にみると到底日本に勝ち目が無いと思われていましたし、日本円の価値も低く開戦とともに日本の既発の公債は暴落しており、初回に計画された1,000万ポンドの公債発行もまったく引き受け手が現れない状況とになっていました。



当時の日本軍の装備は日本に軍需産業なんて無い時代でしたので、ヨーロッパから輸入されたものだったので、戦争をするにはお金が必要だったのです。

そんな中、4月30日から5月にかけて日本軍がロシア軍を退ける進撃をしていきます。

黒木為禎大将率いる日本陸軍の第一軍は朝鮮半島に上陸し、安東近郊の鴨緑江岸を攻略し、続いて奧保肇大将率いる第二軍が遼東半島の塩大墺に上陸し、5月26日、旅順半島の付け根にある南山のロシア軍陣地を大きな損害を受けながらも攻略します。



そうなると世界の人達の考えが変わり始め、日本公債の引き受け手が現れます。

主にはイギリスのパーズ銀行、香港上海銀行(イギリスの銀行)、アメリカのクローンローブ商会が引き取ってくれるという事になって1000万ポンドを調達することになりました。

高橋是清日銀副総裁の熱意と、日本軍の戦闘戦果の好転によって世界から信用を得ることができました。

日露戦争はまだまだ長期化していく事になります、さらなる追加調達を行っていく事になります。

そこで最終的には1億3000万ポンドを調達することができました。

高橋是清さん凄い仕事をしてくれました。


この時は日銀副総裁でしたが、後には総理大臣や大蔵大臣などを務める事になります。

これで日露戦争を最後まで戦える資金を得ることが出来たわけです。


戦費を得た日本軍はいよいよ遼東半島の軍港「旅順奪還作戦」が開始されます。

旅順要塞に対して陸軍は3月上旬までは監視だけで十分であると判断していましたが、その後3月14日、北上する2個軍の後方に有力なロシア軍戦力を残置するのは危険と判断し、2個師団からなる攻城軍を編成することを決定しました。

ロシア最強艦隊であるバルチック艦隊の極東回航がほぼ確定し、追い詰められた日本海軍は、開戦当初から拒み続けてきた陸軍の旅順参戦を認めざるを得なくなりました。

このような経緯により要塞攻略を主任務とする第三軍の編成は遅れ、戦闘序列は5月29日に発令となった。
軍司令部は東京で編成され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が命された。

6月14日、旅順援護のため南下してきたロシア軍部隊を撃退、7月23日には大石橋の戦いで勝利しました。 

8月7日より海軍陸戦重砲隊が旅順港内の艦船に向けて砲撃を開始し、旅順艦隊に損傷を与えた。

これを受けて、旅順艦隊は8月10日に旅順からウラジオストクに向けて出撃、待ち構えていた連合艦隊との間で海戦が起こり、この海戦で旅順艦隊は旗艦と司令長官、巡洋艦と駆逐艦の過半数を事実上失い、残った艦艇も大きな損害を受けて旅順へ引き返しました。

ウラジオストク艦隊も、旅順艦隊に呼応して出撃するが、8月14日に日本海軍第二艦隊に蔚山沖で捕捉され、第二艦隊はウラジオストク艦隊に大損害を与え、その後の活動を阻止しました。

旅順艦隊は出撃をあきらめ作戦能力を失っていましたが、日本側ではそれが確認できず、第三軍は要塞に対し第一回総攻撃を8月19日に開始しますが、しかしロシアの近代的要塞の前に死傷者1万5,000という大損害を受け第1回総攻撃は失敗に終わりました。

8月24日日本の第一軍、第二軍および野津道貫大将率いる第四軍は、満洲の戦略拠点遼陽へ迫まります。

第二軍が南側から正面攻撃をかけ、第一軍が東側の山地を迂回し背後へ進撃した。ロシア軍の司令官クロパトキン大将は全軍を撤退させ、日本軍は遼陽を占領します。

10月9日から10月20日にロシア軍は攻勢に出るてきますが、日本軍の防御の前に失敗。

こののち、両軍は遼陽と奉天の中間付近を流れる沙河の線で睨み合いに入りました。




次回は、旅順要塞攻略戦から振り返ります。