前回は日清戦争を振り返りました。
今回は日清戦争後から日露戦争に至るまでを振り返ります。



日本は大国「清」を破り朝鮮を独立に導きました。
が、朝鮮王朝内部は足の引っ張り合いばかりで、方向性が決まっても民衆が邪魔する事がくりかえされて、日本が近代化を進めようとしましたがなかなか近代化をなす事は出来ませんでした。



一方、日清戦争で攻略した遼東半島と山東半島を割譲させるという天津条約を締結させましたが、その内容を知ったロシアがついに動き出しました。
ロシアとフランスとドイツで遼東半島を返還せよと脅しをかけてきました。
三国干渉です。


当時のロシアと日本は国力が雲泥の差でした。
明治維新から28年しか経っていないのですから、いくら富国強兵をして目覚ましい発展をしたとはいえ無理はありません。
日本は遼東でイギリスの支援を受けて経済を発展させる事を考えていましたが、これを三国は面白く思わず、アメリカ・イギリス・イタリアの協力も取り付けたため、日本もやむなくこれに同意せざるを得ませんでした。


日清戦争敗戦で清国は多くの欧米列強から過酷な要求を求められることになります。

清国は、日本への莫大な賠償金を支払うために欧米列強国から多額の借金をします。その代償として清国の領土を貸せと要求されます。

清国はこれを受け入れざるを得ず、清国の領土はドイツ・ロシア・イギリス・フランスに取られ、窮地に立たされることになります。



1900年義和団事件が勃発します。
清国の中にあった「義和団」という組織が、外国勢力の排斥運動を行い始めます。
日本やロシア、イギリスなどの領事館を焼き討ちします。


そして、当時清国を治めていた西太后がこの動きを支持し、日本やロシアやアメリカ、ヨーロッパ諸国に宣戦布告を行い国家間戦争に発展してしまいます。


その結果、8ヶ国連合軍(日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー)が結成され、戦闘が開始されました。
連合国の戦力約7万に対し、清国は20万人以上の兵士を有していましたが、近代化されていない清国では到底勝てるはずはなく、開戦からわずか2ヶ月で北京を制圧されてしまい敗北してしまいました。




北京が陥落するとあっさりと義和団を切り捨てた西太后の姿勢や、賠償金を支払うために重い負担を強いたことなどから、次第に民衆の不平不満は外国ではなく清朝に向けられるようになりました。
そしてそれから清国は滅亡に向かっていく事になります。






義和団事件を鎮圧に成功した連合国各国は清国から引き上げるのですが、ロシアだけは義和団事件の混乱を理由に満洲地方へ侵攻、満洲全土を占領下に置きました。
ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアに撤兵を約束さすます。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず、駐留軍の増強を図っていきます。






日本は大国清国やロシアの脅威を感じ恐れていましから、朝鮮半島には独立国として存在して欲しかったのです。





日本は、冬になっても港が凍らない不凍港だったので、ロシアからすれば喉から手が出るほど欲しかったのです。




当時のロシアの陸軍は世界第一位、海軍は世界第三位を誇る大強国でした。





日本の九州から朝鮮半島の距離を考えると、ロシアに朝鮮半島を奪われる事は、日本の安全が脅かされるという事だったのです。

それは対清国にも言えた事で、結果日清戦争になったし、絶対に負けられなかったわけです。
そして、清国には勝てましたが、次は虎視眈々とロシアが朝鮮半島を狙ってきます。






中国北東部満洲地方に駐留したロシア軍は1年経っても2年経っても引き上げる気配を見せませんでした。
もちろん、朝鮮半島を手にして日本へ侵攻する為だったのですからロシアが引き上げる事はありません。
そんな状況でしたから日本はロシアと何度も交渉して引き上げてもらうように頼みますが、ロシアは一向に応じません。






日本はこのままだとロシアと戦わなければならない状況になると感じ始めます。






そんな状況でしたから日本は対ロシア戦争に関して色々な研究を始めます。
もしロシアと戦争になった場合、世界はどう動くのかという事を考え、ヨーロッパ諸国や、アメリカと外交を行い友好を高めていきます。

1902年1月外務大臣の小林寿太郎がロンドンの外務省において日英同盟を締結させました。
明治維新後初の同盟の締結でした。





当時のイギリスはヨーロッパの筆頭ともいえる大強国でしたし、ロシアに対しても警戒心を持っていましたので対ロシアという所で同盟が成立しやすかったのでしょう。






これで戦争になっても勝利の可能性が高くなりました。





いざとなれば開戦という事を考えていましたが、あくまでも戦争は最終的手段であり、日本はロシアとの和平案を模索していき、交渉を続けていました。
そして1903年8月、ロシアに日本が最大限に譲歩した苦渋の提案をしました。
「満韓交換論」という提案です。




満洲でのロシアの権益を認める代わりに、朝鮮半島での日本の権益認めてもらおうという妥協案でした。
そもそも、ロシアが満洲地方に駐留することは異常事態でしたが、日本はそこを譲歩して満洲地方に駐留することは認めますが、朝鮮半島は我が国が後ろ盾になって独立国として援助していくという事をロシア側に提案したのです。





しかし、ロシアはこれを拒絶したばかりではなく、エヴゲーニイ極東総督は、朝鮮半島を南北に分け南側を日本へ北側を中立地帯として軍事目的での利用を禁ずるという提案を突きつけてきます。
これは事実上ロシアの支配下に朝鮮半島が入ることを意味し、満韓交換論が日本としては最大限の譲歩でしたから到底飲める提案ではなかったのです。






そこに至って、日本は対ロシア開戦の決意を固めました。





1904年日露国交断絶し、日露戦争へと突入することになりました。




次回、日露戦争編にもご期待ください。