第二十三話:短編小説・オトチの岩窟⓹ | 矢的竜のひこね発掘

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ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

 江原の草稿を読み終えた長兵衛は、渋い表情で切り出した。

「淀殿というお方にそれほど強い御心があったとは、わしには思えぬがのう」

 

「そうでしょうな。淀殿もわがまま放題、高飛車で氷のように冷たい女性(にょしょう)に仕立てられておりますゆえ
 

 淀殿は幼名を茶々という。織田信長の妹、お市の方が近江の戦国大名・浅井長政に政略結婚で嫁いで産んだ三人娘の長女である。

 

 茶々は5歳の時、小谷城は攻め落とされ、母親と妹らと共に城を離れる。

 その後、お市の方は柴田勝家と再婚し、越前に住むが、秀吉に攻められまたもや落城。

 母は夫の勝家と共に死を選ぶが、茶々と妹は生き延びる。

 

 

 茶々は成人し秀吉の側室・淀殿となって大坂城に移る。淀殿が産んだ第一子の鶴松は3歳で死ぬが、その2年後に出産したのが秀頼である。

 

「幼い頃に二度の落城を体験した淀殿だけに、秀頼には何としても落城の悲劇を味わせてはならぬ、と思い込んでいたに違いありません」

 

 熱弁をふるう江原に圧倒されることなく、長兵衛は冷静に反応した。

「なるほど。家康に殺されるよりは、異国に行かせたいと思った心境を思うと哀れじゃのう。だが、その秀頼は一歩も大坂城から出ることができなかった……」

 

「いや、出たと私はみています」

 大野治長は実弟の一人に大和郡山や奈良を襲わせ、もう一人は同方向に向かうと見せかけ、反転して堺奉行所を襲撃させる陽動作戦を取った。

 

 その軍団の中に武装した秀頼と幸村は紛れ込んでいた。今宵は目立たぬ商家で一夜を過ごし、明日未明に明国の船に乗り込むという手筈だった。

 

初夏のこととて申の刻(午後四時ごろ)は、まだ真昼といってもよい。堺の町並みを目前にした幸村が「秀頼脱出、成る」を確信した、まさにその時だ。
 

前方に黒煙が吹き上がると同時に、悲鳴と共に町衆が逃げ出してくる。

 堺を統治していた長崎奉行の長谷川が、堺の町に火を放ったのである。

 

「堺から朝鮮に渡ろうとするほど秀頼の意思は強かったのか……。なるほど、家康にとっては見捨てておくわけにはいかぬ。せっかく朝鮮を丸め込んだのに、その苦労を水の泡にされてたまるか! それが秀頼を殺す動機だったという訳か」

 

「その通りです」

 

「うん、理屈は通っている。だが、おぬしの説にすっかり賛同できたかというと、そうではない。わしなりに、もう少し考えてみる」
 


 

 これまで聞きかじった通説をことごとく塗り替えた江原の歴史解釈に、長兵衛はそう呟くしかなかった。

 

「それで結構です。それがしの説を正しいと証明する証拠は何一つございませんゆえ……。オトチの岩窟の三成の気持ちがよくわかります」
 

 岩窟に身を置いた惨めな姿から、真相にたどり着いてくれるのを待つしかなかった三成の気持ちがわかる?……。

 

 

「もし三成が勝利者になっていたら、朝鮮侵略がいかに無益な行為だったか、という教訓が後世の人々に伝わったと思います。黒幕であったことはもとより、その事実を歴史から抹殺した家康を、それがしは許せないのです」

 

「うん。おぬしの気持ちは前にも聞いておるので、判っておる」

 

「もう一つ、家康は御用学者はもとより市井の物書きや講談師、あるいは高僧など多くの人々に影響を与える者たちに、都合の良い家康伝を語らせ書き残させた。と同時に、それに沿わない者や書き物はこの世から完全に消し去ったのです」

 

 現存する書物、書簡やその他、文字で書かれた物だけを根拠に歴史を語る後世の「歴史家」たちが、自分の思惑通りの家康像を撒き散らしてくれている。黄泉の国から見ている家康はさぞ高笑いしていることだろう。

 

「くどいのを承知で、もう一言。家康が太閤唐入りの真相を葬ったことで後世、必ずしっぺ返しを受けるでしょう。日本国は数百年のうちに外国に侵入し、唐入りの何十倍もの犠牲を払うにちがいありません」

 

 二度と会うことはないと思ってか、江原は思いの丈をさらけだした。

 

「気持ちはわかるが、おぬしがいくら逆立ちしても、歴史を塗り替えられるものではあるまい」

 江原が背負った重い荷物を軽くしてやろうという、長兵衛なりの心遣いだった。

 

「お気遣いに感謝して、この辺で打ち切りにさせていただきます」

 おとなしく江原は引き下がった。

 

「だが三成公に比べると、おぬしは果報者じゃ。歴史の裏を覗く楽しみを持っておれば、どんなに年を取ろうと退屈することがないじゃろう」

「銭が稼げれば、もっと幸せになれるんですがねえ」

 

「そうはいくまい。あのような理屈っぽい本に銭を投じる者は限られておる」

 そう言って長兵衛が笑うと、江原も哄笑した。

 笑い終えると、ポツンと呟く。

 

「歴史の解釈は一つと決めつけてはなりません。色々な見方があってもよい。いやそうでなければなりません。誰もが知っている通説と、あっと驚く異説のどちらが正しいか? どちらの筋が通っているか? 一人一人が考えたらよいのです。そうすれば権力者が看板だけすり替えようとしても、騙される人が少なくなります。それが世の中をよくするのです」

 

「うん、その通りだ。今になっては手遅れだが、肝に銘じておこう」

「そう言わずに、百まで長生きしてくださいよ。やることが無くなった時は呆けますからね」

 

「心配ご無用。わしにはまだ大事な仕事が残っておる」

「そうでしたっけ……。いけねえ、そうだ。その通りです。見事に成し遂げてくださいよ」

 

 その言葉を残した翌朝、長兵衛一家総出の見送りを受けながら江原頭角は去って行った。

(第二十三話完)
 

(いよいよ来月は最終月です。もうしばらくお付き合いください。)