第二十三話:短編小説・オトチの岩窟➂ | 矢的竜のひこね発掘

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ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

 大野治長は言葉を続けた。

「生身の秀頼様は、何事もご自身でなさるお方なのじゃ」

 

 朝の目覚めから夜具の片づけ、着替え、洗面……すべて他人の手を介せずご自身で済まされる。

 読む本は自ら選び、武芸の鍛錬も自発的になさる。真冬でも木綿の(ひとえ)で過ごされ、朝は粥一膳、夜は一汁三菜で昼食はとられぬ。客の相手や行事の時以外は酒を口になさることもない。

 

(まるで禅僧ではないか)

 幸村が治長の告白を皮肉交じりに受け止めた瞬間、咎めるような一言が飛んできた。

「秀頼様の理想は、 願人(がんにん)坊主(ぼうず)なられることなのじゃ」

着古した衣、伸び放題の髪。家々の玄関口で経を唱える瘦せこけた身体。わずかな施しで糊口をしのぐ乞食坊主の姿を、幸村は思い浮かべた。

 

(太閤の遺児が願人坊主になりたいだと……。途方もない冗談を)

 笑い飛ばしたいところだが、仮にも当人は右大臣である。


 

(そういえば淀殿も、尼になるのが夢、と聞かされたことがある。手口が一緒ではないか)

 いまだ先入観が消せぬ幸村の耳に、治長は切々と語りかけてくる。

 

「秀頼様の思いは太閤殿下の唐入りに対する贖罪から生じておる。一時の気まぐれや、お袋様の感化によるものではない」

 

 太閤の鶴の一声によって、七年間に延べ三十万人以上の日本兵が朝鮮半島に上陸した。その結果、日朝にどれほどの死傷者が出たかは定かでないが、生半可な数でないことは想像がつく。

 

十数万の朝鮮人が殺され、七万人の捕虜が日本に連行されたという話もある。目についた鶏や豚、牛馬はみな日本兵に食われてしまった。

 

王宮の建物はじめ各種建造物、民家や納屋まで焼かれ、田畑は踏み荒らされてしまったので、復旧には二百年の歳月を要するともいわれている。


 日本兵は手柄を示すため敵兵や民間人の耳や鼻を削ぎ、日本に送った。方広寺耳塚はその非道の(あかし)である。

 

(Wikipediaの耳塚に掲載されている『ケンペルのスケッチ画』と、東大寺蔵屏風絵の『公慶上人大仏開眼供養図』を参考に江戸期の耳塚を想像してみた。現在の耳塚とは異なる)

 

 秀頼はそうした父親の暴挙への謝罪を胸にたたんで朝鮮半島を巡り歩き、大量虐殺の行われた地で念仏を唱え、困窮している人々の手助けができれば幸いと考えている。

 

「子は自分の意思で生まれてくる訳ではない。しかも、親を選ぶことはできない。だからといって極悪非道な振る舞いを犯した親を、まったく無関係な人間と言い逃れることができようか」

 

 治長は口を挟もうとする幸村を制して、言葉を継いだ。

「むろん、そう言い張れる者もいよう。だが秀頼様はそれができないお方なのだ。十三歳の時だったか。関白の位にあった秀次様の末路をお知りになった直後に、二十日ほど絶食なされたことがある」

 

淀殿が産んだ第一子は秀吉が五十三歳にして初めて授かった実子だが、その鶴松が三歳で死ぬと、秀吉は (もとどりを切り有馬温泉に籠るほどの落胆ぶりを世に曝した。

 

もう実子が生まれることはないと観念した秀吉は、関白の地位を姉の子、すなわち甥の秀次に譲り自らは太閤となる。

(続く)