第十話 短編小説・西野水道⑥ | 矢的竜のひこね発掘

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ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

落盤を引き起こした岩盤層は案じたほどのことはなく、しばらくすると前と同じ硬い層に戻った。

弘化2年(1845)の年が明けてすぐに、城下から青木津右衛門・新兵衛父子も出向いてきて、実状を見て帰った。

 

3月下旬になると恵荘の顔つきが厳しくなり、寝不足のせいか両目が充血して兎の目のようになった。

上人(しょうにん) さまには、またぞろ心配症がぶり返したようじゃのう」

冗談交じりの口ぶりとは正反対に、与平は何か良からぬことが起こったのではないか、と不安を抱いていた。

 

「わしは上人と呼ばれる身分ではない。ただの住職だが、そんなことはどうでもよい。下手すると、これまでの努力が 一切(いっさい)合切(がっさい) 水の泡になってしまうかもしれぬ、と思うとおちおち寝てなどいられないのじゃ」

 

「お、脅かさないでくれ。いったい何を心配しておるのだ?」

「わからぬか。もう苗代の準備が始まり、これから田植え、草取りとお百姓は寸暇も惜しむ季節になる。そして梅雨入りじゃ。ここ数年、天候に恵まれたが、今年あたりは大雨が降っても不思議はない」

 

そこまで聞くと、与平にも事の重大さがわかる。日焼けして目立ちはせぬが、顔は真っ青になっているにちがいない。

「そうか、余呉川の分流工事がほとんど進んでないうえに、農繁期で人手が足りない。そこに・・・・」

 そこに大雨が降ったら余呉川が氾濫し、田畑や家が水没するだけではない。せっかく掘った水路まで土砂でふさがり、これまでの努力は (もと)木阿弥(もくあみ) になってしまう。

 

「今度ばかりは仏像を売って (しの) げるという話でもない。人手がおらんのだぞ。三日三晩考えたが、対策を考えつかんのじゃ」

 恵荘の顔は今にも泣き出しそうになっている。

「と、とにかく、このことはおぬしとわしだけの秘密にしておこう。おぬしは神様仏様に祈ってくれ! 今度はわしがなんとかする」

 とりあえず、そう言うしかなかった。

 

そして一晩中考え抜いた結果は、藩に泣きつくしかない、という結論だった。

東の空が白み始めると、水を入れた竹筒と予備の 草鞋(わらじ) だけ腰に括り付け、家を飛び出した。とにかく城下に行くことしか頭にない。夢中で一刻(2時間)ほど歩いた頃に、絶望的な思いがこみ上げてきた。

(仮に青木津右衛門様の理解を得たとしも、すぐさま助っ人を出してもらえるわけがない)

 

道端に座り込んでどれくらい経ったのか、徹夜と速足の疲れで居眠りをしていた与平は、肩を揺すぶられ目を覚ました。

「やはり与平さんでしたか」

なんと、新兵衛が目の前で微笑んでいる。それどころか、もっと驚かされた。彦根藩から延べ1,300人の足軽を派遣する、という朗報を伝えるために西野村に来る途中だと言うではないか。

 

「う、嘘ではあるまいな」

「何か役に立つ例はないか、と藩の記録を調べているうちに、今年あたりは水害に遭うかもしれぬ、という懸念が生じておりました。それで昨年の秋から藩にお願いしておったのです。なんとか梅雨を迎える前に、工事を終えてほしいですからねえ」

 

「あっ、年明けに見えたのは、その一環だったのですか」

「藩は銭に苦労している反面、頭数は余っている。しかも一年中、暇を持て余している連中が……。わたしもそのうちの一人ですが」

 新兵衛は笑いながら、この言葉は聞かなかったことにしてください、と付け足した。

 

6月3日、西野水道は貫通した。足かけ6年の苦労は報われた。東西から掘った洞穴は一尺ほどの誤差はあったが見事に繋がった。

「やった~っ。やったのう、和尚」

歓喜に渦巻く村人を、庄屋の与平と充満寺の恵荘は離れた所から眺めている。

「おまえや村の衆、隣村や藩の皆様のご支援があ ったからじゃ」

 

この場においても謙虚な言葉を口にする恵荘が、与平は物足りない。

「なんじゃ、もっと威張らんかい。青の洞門を遥かに上回る成果を上げたのだ。あの禅海上人を上回ったのじゃぞ」

唾を飛ばしながら、与平は褒め立てた。

 

「わしは禅海上人には及びもつかぬ。あのお方は通行人の命を救うという建前で隧道を掘られたが、真実は求道、つまり仏の道を極めんとする修行に他ならない。かたや拙僧は、隣人の暮らしをよくする為に水路を掘ろうとしただけじゃ。仏法を極めるという高邁な目標ではないし、万民を救おうという広い心があったわけでもない」

淡々と述べ立てる恵荘の顔を、あっけにとられた与平は呆然と見つめていた。(第十話 完)

 

 

(注1)史実をベースに、一部創作を加えたフィクションです。

(注2)長浜市の広報は西野水道の事業を次のようにまとめている。

    高さ約2m、幅約1.2m、長さ220m。石工の労働日数5,289日。村方人足3,500人。

    他村からの手伝い123人。  

    総経費1,275両(現代の3~5億円)のほとんどは100戸足らずの農家が負担した。

(注3)主な参考文献(文中に記した以外のもの)

   ・「江戸時代 人づくり風土記㉕」 ㈳ 農村漁村文化協会

   ・「季刊 湖国と文化・第93号」 ㈶ 滋賀県文化振興事業団

   ・「石造物が語る中世職能集団」 山川均 山川出版社

                                                                                                               

あとがき

(1) 「日本石仏事典」(庚申懇話会)には、佐渡の石工は文字を刻む時には一日に数十本のタガネを用意して仕事をした。またタガネは他の道具のように刃先を研ぐのではなく、焼を入れて打ち直して再生させるので、石工は鍛冶屋の技術を持っていた、と書かれている。

 

(2)長野主膳の出自は不明だが伊勢の人とも謂れている。その長野は天保12年(18421)に近江に住み着き、その翌年に高尚館を開いている。その頃、伊勢に戻る要件を抱えていたことは記録として残っている。西野水道に関わりを持ったというくだりはフィクションである。

 

(3)恵荘が彦根藩代官の青木津右衛門と親戚であり、相談を持ち掛けたことは史実であるが、代官を身軽に走らせるのは無理があるので、新兵衛という架空の人物を設定した。

 

(5)恵荘は嘉永2年71歳で没した。井伊直弼はその功績を称え『上人』の称号を贈った。なお平安時代初期の作とされる十一面観音菩薩像、伝教大師が刻んだと伝わる薬師如来像は重要文化財に指定され、今も充満寺に所属している。

 

番外編

 

 にゃんちゃんで~す。なかなか僕の出番がありません。ヤキモキしているうちに、今年も終わりそうな雰囲気です。それで強引に割り込むことにしました。

 当ブログをお読みくださっている皆様、この一年本当にありがとうございました。来年も面白いお話をお伝えするよう全力で頑張る所存です。

 引き続き、お楽しみいただきますよう、心からお願い申し上げます。

 

 次回のテーマは「大久保忠隣と鄭成功」です。あまり知られていない人たちだけに、面白いと思いますよ。元旦から始まりますのでお楽しみに!それでは皆様、良いお年をお迎えください!!