第六話 雨壺山談議② | 矢的竜のひこね発掘

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ご当地在住の作家が彦根の今昔を掘り起こします。

 そもそも家康は天下分け目の合戦というのに、すぐには江戸を発とうとはしなかった。

 会津の上杉景勝の征伐に赴く途上で三成が挙兵し、毛利輝元を総大将とする西軍が反徳川の旗を掲げた。

 それを予期していた家康は、大坂に反転し西軍と戦う意思を表明し、従軍諸将の同意を得た。しかしながら、その大半は豊臣家の重臣であって、徳川家の家臣ではない。全幅の信頼を置くまでには至っていなかった。

 

 そのため出立を伸ばし、旗幟(きし)鮮明になるのを待つことにした。だが、内心穏やかではいられない。

 秀吉に可愛がられて出世した武将たちは、家康に加担して大坂方と戦うことに後ろめたさを抱いている。考える時間を与えれば与えるほど、彼らは動揺する。下手すると戦列から離脱しかねない。

 

 敵の弱みは、味方の強み。三成側からすれば、戦いが長引くほど有利である。太閤は立身出世の星であり、惜しげもなくゼニをばら撒いてきたから、大坂、京だけでなく全国的な人気を博している。   

 その太閤の遺児を護るとの大義名分を掲げれば、世論は必ず西軍を支持すると見込めるからだ。

対立を長引かせば、東軍は内部崩壊するに違いない。

 

 いまや戦いの長短が勝敗のカギを握っていた。

 

 敵味方が岐阜城の攻防戦に入ったとの知らせが届くと、渡り鳥が飛び立つように江戸を離れたが、焦る家康にとって、三成ら西軍が立てこもる大垣城を攻めている余裕はない。

 何か月もかかる籠城戦は敵の思う壺だ。

 

 家康は大垣城の西北の赤坂に陣を置くと、すぐ直政を呼びつけた。

「大垣城は放っておいて佐和山城を攻めようと思うが、どうじゃろう? 三成の城を攻めるといえば、清正や正則らは戦の名目が立つ。俄然、勇み立つぞ」

 

 加藤清正や福島正則といった豊臣家重臣は、亡き太閤への恩返しより家康に加担する実利に魅かれて東軍についている。世間の人々から、忘恩の徒と罵られるのを避けるために、三成憎し、を旗頭に世間の目を欺いているだけだ。

 

 そうした態度は卑怯そのものだが、彼らにも立場がある。負け側についたら自分の命はもちろん、身内や子飼いの家来も死なせることになる。多数の命を預かる以上、正義や義理に殉じて忠実な仲間を見殺しにするようでは上に立つ資格は無い。

 

僭越(せんえつ)ながら申し上げます。いまは佐和山城など無視して、一挙に大坂城を攻める時です」

 直政は躊躇(ちゅうちょ)なく答えた。

 瀬田川に架かる橋を落とされたら、籠城戦に等しい空白が生まれてしまう。古来より、瀬田の唐橋を制する者は天下を制す、と言われてきたことを挙げて、家康を説得した。

 

 だが、直政の肚は読まれていた。家康が赤坂を発つ前夜に、三成ら西軍は大垣城を抜け出した。雨の中を関ケ原まで夜を徹して移動し、未明には事前の手筈どおり陣地を敷いたのである。

 

 未明に発った家康勢が、関ケ原を遠望する南宮山麓に着いた時にはすっかり夜が明けていた。雨中で見通しはつかなかったが、物見の報告で西軍の配置が判明した。

 

(笹尾山の三成陣地:東軍を阻むように待ち受けている)

 

「負けじゃ、直政。三成めに嵌められたぞ。くそっ。やつに首を渡すくらいなら、今この場で腹を切る」

 さすがは家康、西軍は前もって関ケ原を合戦の場と想定し東軍を包囲する陣配置を決めていた、ことを瞬時に悟ったのである。すでに西軍は、関ケ原を囲む山々を城に見立てた籠城戦を展開する構えを築きあげている。

 

 58歳の家康が我を忘れて狼狽するのを、40歳の直政はあっけに取られて見つめていた。

 確かに直政から見ても、西軍の布陣は優っている。だが、東軍に内通している武将が心変わりしない限り、西軍の配置は見せかけにすぎない。裏切り者を抱えた城はすぐ落ちる。恐れることはない。

 

 直政は冷静に(なだ)めにかかる。

「殿、早まってはなりませぬ。まだ勝ち負けが決まった訳ではございませぬ。これから直ちに、それがしが井伊の赤備えを率いて三成本陣に突っ込み、早期決着の道筋をつけてみせます。それまでどうか、ご辛抱くださいますようお願い申し上げます」

 

(赤備えと呼ばれた井伊軍団の甲冑:彦根市役所に展示されている伝匠彦根甲冑)

 

 天下無敵と恐れられた武田の騎馬武者の大半が、直政の配下となっている。真紅の鎧具足から生まれた「赤備え」の呼称も井伊家に引き継がれていた。現下の日の本では、最強の軍団だった。

 

(この続きは21日にアップいたします)