「いのりの日々 法華寺門跡 久我高照 」 | ドット模様のくつ底

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平成23年(2011)10月31日、今から2年前に
法華寺門跡の久我高照尼公様が老衰のため逝去されました。
89歳でした。


今年の6月に
『いのりの日々 法華寺門跡 久我高照』という御本が出版されました。

文筆家の中島史子様が1冊におまとめになっています。

いのりの日々: 法華寺門跡久我高照/淡交社
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本から
久我高照尼公様の
生い立ちなどを少しですが
ご紹介させて頂きます。



明治41年10月起草された法華寺門跡の寺則には、
法華寺の後継ぎは、
近衛公爵家、九条公爵家、水谷川男爵家の承諾を得て、
近衛公爵家が指名すると記されているそうです。


久我高照御門跡は、

大正10年(1921)8月5日に久我家の姫君として
京都でお生まれになりました。
素子様と名付けられました。


東京天文台ができ、アインシュタインがノーベル賞を受賞、
志賀直哉氏が『暗夜行路』を発表した年です。

明治天皇のご后、昭憲皇后の姪にあたられ、
大正天皇のご后、貞明皇后から、指導を受けられ、
その薦めで門跡になられました。


貞明皇后は九条家のご出身。
法華寺の先代、近衛高尊門跡は
その九条家の分家にあたるお家柄です。

先代の40歳というあまりに早い御遷化に
胸を痛められた貞明皇后は、
法華寺の行く末を案じられ、


御由緒のある門跡尼寺を嗣ぐにふさわしい女性として、
名門貴族・久我家の姫様、

素子姫に白羽の矢を立てられました。


取材をされた中島史子様は、20年ほど前、
御門様に入寺なさるころのお話をお尋ねになったそうです。

中島様は、つらくかなしい想いであっただろうと想像していたところ、
御門様のお答えは、


「かなしいとか、つらいとかは少しも思いませんでしたよ。
それに姉が京都にある三時(さんじ)知恩寺(ちおんじ)に入っておりましたしね」
というものだったとか。



お姉様の伏見誓寛(ふしみせいかん)門跡は、

御門様がおっしゃるように、三時知恩寺と


信州善光寺の京都別院の尼寺として
明治27年(1894)に開山された
門跡尼寺 得浄明院(とくじょうみょういん)の門跡も兼務されています。



今回の御本のために伏見誓寛門跡に
取材され、お姉様も入寺されるときにうれしかったと
お答えになっていると知った中島様は、


俗世間とはまったく別の尺度が
世の中に存在することに気づいたと述べられていました。


もちろん、人間として父母や兄弟を慕う気持ちはあることでしょうけれど、

それはきらめくような仏の導きによってひらかれる道であり、
その道に入れることはよろこびそのもの。


御門様は法華寺に入寺されることに
うれしく誇りに思われていたのでしょうと、記されていました。



明治維新後、政府は西洋化を急ぐあまり、
神仏分離令を出すほか、寺領が没収されるなど、
仏教界は苦難を強いた時期がありました。


その際、寺院は統合を余儀なくされ、
総国分尼寺の法華寺が、西大寺の宗門に
組み込まれていた時代があったそうです。


久我素子姫が法華寺に入寺される前、
縁のある西大寺のご本尊には、
十二単衣姿(じゅうにひとえすがた)で
御挨拶されています。



西大寺で撮影された、その当時の
御門様の美しいお姿が本の1ページにおさめられていました。



私は久我高照門跡にインタビューさせて頂いたことがあるのですが、
お優しく、上品なお言葉遣いであったのを記憶しております。

御門様は、50年前の光明皇后1200年大遠忌法要と、
平成22年には1250年大遠忌法要という

大遠忌法要を、一生に亘り二度、厳修(ごんしゅ)された方です。

50年前の当時、宝塚歌劇団が光明皇后がテーマでお芝居をされた際、
御門様は、その戯曲の原案をお考えになられたとお伺いしました。


また、華道「法華寺小池御流」の家元であり、

書道や絵画をたしなまれる文化人でもいらっしゃいました。



中島史子様により、
尼寺にまつわる歴史のことや、御門様のゆかりのある方々に
取材を重ねられ、まとめられた良書です。


それでは、今日も皆様が健康で幸せに過ごせますように。