イエスはなぜ、あれほど憎まれたのか | 真理は心の中にある

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真理は心の中にある。これが私の基本的修行スタイルです。日々、思っていること、考えていることのなかで、読者が参考になると思われることを書いていきたいと思っています。

ユダヤの律法学者たちは、何故、あれほどイエスを憎んだのか。
イエスは特に、反社会的な活動をしていたわけではない。

イエスは、もちろん愛情に溢れた人であったが、同時に自由人でもあった。

この世的な地位に全く頓着しない人であった。
身分の上下で態度を変えることは全くなかったに違いない。

しかし、こういった態度は身分の高い人から見れば、たいへん傲慢に思えただろう。

律法学者は社会のなかで最も尊敬されていた。
そして、律法学者に睨まれれば、社会的に抹殺されてしまうこともあった。

律法学者は敬わられ、そして怖れられた。

しかし、イエスは全く違った。
イエスにしてみれば、律法学者であっても、最も身分の低かった取税人や売春婦と同列であった。

律法学者は「イエスは人々を惑わす教えを語っている」としてを罪に問うた。
普通であれば、この時点で、その人は社会的に抹殺されてしまう。

しかし、イエスは怯むことはなかった。
そしてイエスは、見事に言い返し、完膚なきまでに論破してしまう。

イエスは罰せられることはなかったが、これで、律法学者から深く、深く恨まれることになる。

イエスの言葉は、霊感に溢れ、そして自由自在でありながら、誠に理にかなっていた。
しかし、律法学者の言葉には権威はあったが、霊感は全くなかった。

イエスの人気が上がれば、上がるほど、律法学者の怒りが燃え上がったことは、想像に難くない。

しかし、イエスのまわりにいる人は、所詮は身分の低い人たちばかり。
病気治しなどの奇跡を見て、ついて来た人たちがほとんど。

そして奇跡が起きなければ、一人二人と去って行った。

イエスの教えは、あくまで心の王国を守る教えであり、この世の王国のことなど、どうでもよかった。

イエスに、この世の王となって民衆を導いてくれると期待していた人は、失望した。
そしてイエスから離れて後は、偽預言者だと触れ回ったに違いない。

イスカリオのユダも、「イエスは、我らの王となって、民衆を導いてくれる」と宣伝し、多くの人を集めていた。

しかし、イエスは自ら、ユダヤの王となることを拒絶した。
ユダの面目まる潰れである。
そしてユダは信じる力を失った。

イエスは律法学者の面子を潰して恨みを買い、民衆の期待を裏切って、恨みを買った。

逃げようと思えば、逃げることはできたに違いない。
しかしイエスは逃げなかった。

ユダが裏切っていることは知っていたに違いない。
しかしユダのなすがままに、させていたのはなぜだろう。

私にはわからない。
しかし、「神の子であるイエスは一匹の子羊を救うために、我が身を犠牲にすることがある」ということかもしれない。

イエスは自ら敵地であるエルサレムに入城し、そして捕らえられる。

激しい激しい憎しみの中で、イエスの心は揺るがなかった。
罵詈讒謗の中でも、祈りを止めることはなかった。

その荒れ狂った、激しい憎悪のなかで、祈りをやめないイエスを見て、何も感じなかった人はいなかったに違いない。

荒れ狂う憎悪のなかで、イエスは一粒の救いの光を、人々の心に植え付けていったのだ。