成功には二種類ある。
着実な成功とあだ花的な成功だ。
世に成功者として目立っているのは、あだ花的な成功であって、着実な成功を積み重ねている人は、当たり前のことを当たり前にやっているように見えて、目立たないものだ。
この世には、まがい物の成功者という人はいっぱいいる。
そんな人の話を真に受けると、とんでもない痛い目に会う。
成功の種はごみ箱の中にあるというが、成功の種は平凡な人からもたらされることがほとんどだ。
ごく平凡な人のところに幸運の女神は舞い降りている。
そういった人は平凡に見えて、心の奥に非凡なものを持っている。
多くの人は、その前を通っても、何もき気にとめないだろう。
しかし、ごく稀に気がつく人もいる。
貧しい身なりをしていても、富の神が宿っている人もいる。
立派な身なりをして、いかにも成功者という身振り手振りで話していたとしても、心の中に貧乏神が宿っていることも多い。
「成功した、失敗した」と一喜一憂しているようでは富の神は宿らない。
成功も失敗も一瞬の出来事。
過ぎ去ってしまえば、ただ過去の出来事。
単なる思い出でしかない。
何が起きようとも、日々たんたんと努力を積み重ねていく人に富の神は宿るのだ。
この世にまがい物は実に多い。
そしてまがい物の方が、よく目立つ。
そんなところに魅入られれば大怪我を負うことだってありうる。
仏法真理の説く成功論は地味で当たり前のことを言っているように思えるかもしれないが、噛めば噛むほど味わい深くなり、飽きることはない。
まがまがしい光に惑わされてはいけない。
心が浮ついていると、そんなまがまがしい光であっても、神仏の光だと思えてしまうことがある。
神仏の光は透明な光だ。
まがまがしい光は人を酔わせる能力を持っている。
そして一見、救われたような感じになるが、それが途切れると禁断症状に襲われる。
麻薬と同じだ。
神仏の光には覚醒作用はあっても、人を酔わせる作用はない。
それは対極にあるものだ。
成功者の中には、こういったまがまがしい光を放っている人は少なくない。
そして成功を求める人は、このまがまがしい光に魅惑されてしまうことがある。
しかし、永遠なる真理は、そんなところには存在していない。
ちょっとした出来心で大事なものを失うようなことはあってはならない。