自分の人生の主人公は自分自身。
今、この世界を選んだのは自分自身。
この自覚がなければ、いくら真理を学んでも、実践するには至らない。
他人の意図に乗っかっているだけでは、真理のもつ醍醐味を味わうことはできない。
自分勝手に行動せよと言っているのではない。
しかし「自分がやらずして、誰がやる」という自負心は讃えるべきである。
しかし多くの人は真理の片鱗を見て、わかったつもりになり、解釈するばかりで、自分自身が真理を語るまでには至らない。
自信がないのだろう。
勇気がないのだろう。
それは、それでいい。
しかし、あなたの語る言葉は真理ではなく、真理の解説に過ぎない。
そのことをよくよく自覚しておくべきだ。
あなたの語る言葉は道案内に過ぎず、あなたの語る言葉で、人の心を変えることはできない。
「真理の説明しかできず、真理そのものをを語ることができない」
そういう、あなた方は勇気に欠けている。
それを謙虚だと思っているのは、ただ臆病な自分を正当化しているだけだ。
法の解説者で満足するな。真理そのものを語れ。
これほど大量の教えを出しているのは、我々自身が真理を語リ、そして世の中に一石を投じていけということだ。
「会員は法の解説者でなければいけない」という考え方が、未だに教団の中に根強く残っており、それが伝道に対する大きなブレーキになっているのではないか。
確かに初期の頃、大川先生は「求められているのは法の解説者であり、法を創造することは求められていない」という話をしたことがある。
しかし、あれから20数年経ち、その言葉に囚われ、「会員に許されているのは法の解説のみで、法そのものを語ってはいけない」という風潮が残っているとしたら、いささか問題である。
法には厳格に解釈するべき部分と、時と場所によって柔軟に解釈するべき部分がある。
全ての教えを厳格に解釈しては、自縄自縛となり、身動きが取れなくなってしまう。
ただただ教条的になっていくと、わかりやすい考え方が優先され、わかりにくい教えは後回しにされてしまう。
この世に近い教えが尊重され、霊的な教えは棚上げされてしまうのだ。
仏の教えは高く、広く、そして深い。
その中に高次な教えもあるが、低次な考え方も含まれている。
しかし、原理主義的に解釈してしまうと、高次な教えも、低次な考え方も一緒くたにしてしまう。
その結果、この世的にわかりやすい低次な考え方が強調され、高次な教えは棚上げされてしまうのだ。
「私達のような未熟な人間は仏の考えがわかるはずがない」と決めつけ、教団の方針に従って、ただ素直に行動するのが、会員としての、あるべき姿という決めつけも、非常に、この世的な考えから生まれている。
我々は宗教者だ。
まず統御するべきは心であって、行動ではない。
実績を問う前に、動機を問わなければいけない。
今という、この時代において、仏は何を考えているのか。
何を問うているのか。
何を望んでいるのか。
その答えは各人各様だ。
それは決して画一的なものではない。
同じ仏を信じていながら、同じ説法を聞いていながら、各人の出す答えは異なる。
そこに微妙なる味わいがあり、おもしろさがあり、豊かさがある。
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