もくじ
第1章 乗船のきっかけ
第2章 漁場に着くまで
第3章 地獄の日々
(ソマリア沖編)
(南アフリカ沖編)
第4章 天国の日々
あとがき
第1章
【乗船のきっかけ】
今から32年前の1989年、私は19才で父親が漁労長(船頭)を務める土佐カツオ一本釣り漁船に乗り、家業である漁師になりました。
私の父は仕事に厳しく、息子の私には特に厳しかった。
甘ったれのクソガキだった私はその厳しさに1年も耐えきれず、静岡県の焼津港で逃亡をしてしまいました。
もう父親に怒られるのがどうしても嫌だったのです。
しかし、私の所持金はたったの1万円。
焼津市には友達も知り合いも居ない。
地元高知県へ帰るにはお金が足りない。
一か八かパチンコ屋へ入り勝負をしたが、勝てるはずもなく、残金500円だけになってしまった。12月の夜の寒い中、
途方に暮れた私は暗い夜道を肩を落としながら歩いていました。
すると目の前に明るい看板が見えてきました。
『スナック3匹のこぶた』
まるで吸い寄せられるかのように何のためらいもなく500円玉を握りしめてドアを開けました。
とにかく心細くて人恋しかったのを今でも憶えています。
『いらっしゃいませ!あれっ?お父さん迎えにきたの?』
私は20歳の頃、中学生にしか見えない程の童顔だったので、まさか飲みに来たとは思われなかったのです。
カウンターに座り、ビールを注文したあと、店のママに根掘り葉掘り聞かれたので、一部始終を話しました。
するとママは突然
『じゃ、あんたマグロ漁船に乗りなよ!』
と言って、すぐにマグロ漁船の会社の専務さんに電話をかけ、それから数十分後には専務さんが現れた。
そして専務さんに飲み代をご馳走してもらい、その夜から、マグロ漁船の会社の船員寮で寝泊りすることになりました。
翌日からはマグロ漁船が出港するまでの間、造船所で日払いのアルバイトをさせてもらいました。
高知の実家には専務さんに頼んで連絡をしてもらい、状況を説明してもらいました。
それから約1ヶ月が経ち、いよいよ成人の日でもあった1月15日、出港の日がやってきました。
2年近く日本を離れると聞いていたので出港直前、急に寂しさが込み上がり、高知の親友たちに電話をかけましたがみんな成人式に行って連絡がとれませんでした。
しばらく日本に帰ってこれないという不安と、海外に行けるというワクワクした気持ちで出港したのでした。
第2章
【漁場に着くまで】
日本を離れ、アフリカ大陸の東側で赤道直下に位置するソマリア沖までの約1ヶ月間の航海が始まりました。
その期間は船員22人がみんなでマグロを釣るための漁具作りをします。
その作業以外の時間帯は、交代で見張り当直をしたり、休憩時間は自分の部屋でビデオを観たりして過ごします。
出港前に電気屋さんでテレビとビデオデッキを買って、更にビデオテープも数十本単位で各自が持っていきます。
全て観終わったら、他の人の分と交換してもらっていくのです。
みんなのビデオテープが交換でぐるぐる回って、もう新しいのが無くなってきた場合、今度は他のマグロ漁船と海上で交換していきます。ビデオテープが入った発泡スチロールの箱を海に浮かべてもらい、それを長いフックで引っ掛けて船上に引き揚げるのです。
漁場に着くまでの間はみんな仲良く、私も可愛がってもらいました。
中でも刑務所から出所してきたばかりの原さんには良くしてもらいました。
みんなからは『あんちゃん、あんちゃん』と呼ばれていました。
お風呂に入るときに気が付いたんですが、半分以上の船員が身体のどこかに刺青が入っていたり、小指が無い人もいました。
でもみんな優しくて面白い人ばかりでした。
まさかこの後、漁場に着いてからみんなの態度が信じられない程、豹変するなんて、これっぽっちも思っていなかったのでした。
第3章
【地獄の日々】
(ソマリア沖編)
日本を離れて約1か月が経ち、遂に最初の漁場である赤道直下のソマリア沖に到着しました。経験したことがない厳しい暑さと湿気で仕事中は汗だく、そして身体中が潮かぶれという皮膚炎、更に漁具に絡んでくるクラゲには毎日のように刺されていました。
マグロ延縄漁は船をゆっくり走らせながら6時間かけて約3000本の釣り針に1本ずつ丁寧にサバやイワシを取り付けて海に流していきます。
そしてその作業が終わった3時間後に今度は12時間から17時間くらいかけて3000本の漁具を1本ずつ船に揚げていくのです。
私の主な作業は、狙いのマグロ以外で釣れてきたサメを出刃包丁で殺してフカヒレとなるヒレを切り取ったり、散らかった魚の内臓などを拾い集めては海に捨てたり、海鳥が飲み込んできた釣り針を鳥の腹を出刃庖丁で割いて取り出すというような雑用ばかりでした。
マグロ漁船1年生は皆そういうことから始めるのがこの船の常識で、他にもみんなのタバコに火を点けて配ることや、コーヒーを入れたりするのも1年生の仕事でした。
1年生とは言っても1年生は私1人だけでしたので、それは過酷なものでした。
誰か1人にコーヒーを頼まれた時に、その人が普段飲んでるコーヒーはブラックコーヒーなのに、間違えて砂糖でも入れて持っていくと、
『あんちゃん!ワレ俺がブラックと分かってて砂糖入れただろ!』
って言いながら顔にぶっ掛けられることがよくありました。その逆も当然あり、砂糖を入れないといけない人にブラックコーヒーを持っていってぶっ掛けられたこともありました。
作ったばかりの98℃の熱湯でしたので、熱いなんてもんではなかった。
熱がる私を見てみんなが大笑いするという具合でした。
だから、私は1人1人のコーヒーの種類を身体で覚えていったのです。
タバコの場合も同じようなパターンで、『あんちゃん!パッパッパッ』
『はい、何でしょうか?』と言いながら近づいていくと
『パッパッパッはタバコだろ!』と怒鳴られながら顔面を殴られ、慌ててタバコを取りに行くと、タバコ置き場には何種類ものタバコがズラリ。
何の銘柄か聞きに行ったらまた殴られると思い、一か八かマイルドセブンを恐る恐る持っていくと今度は
『ワレ!俺がキャビン吸ってるの分かっててコレ持ってきたんだろ!』そう言われてまた殴られて転んでそのタバコを箱ごと落として濡れたのをまた今度はそのマイルドセブンの持ち主に
『ワレ!俺のタバコを濡らしやがって!』と怒鳴られながらまた殴られるのです。
仕事中はほぼ毎日こんな日が続きました。
仕事終わりは身も心もクタクタで、そんな時に1人の人が優しい顔で
『あんちゃん、疲れたか?』と聞かれ、ここでもし疲れましたなんて言うとまた殴られると思い、『疲れてないです!』
と答えると
『仕事を一生懸命やってないからや!』と怒鳴られ殴られました。
次の日の仕事終わりにまた同じ人から同じ質問をされ、もう殴られたくはないので
『疲れました!』って答えると
『ワレだけやないんや!』と怒鳴られ殴られました。
血だらけになっている私をニヤニヤしながら見て
『あんちゃん、痛いか?』
『ハイ、痛いです。』
『生きてる証拠や!』
このやり取りが何度あったか覚えていません。
その日の仕事が終わっても一年生の私だけはまだ終われません。
みんながそれぞれの部屋に戻る前に急いで1人1人の部屋の掃除、ゴミ回収、そしてトイレ掃除、最後に風呂掃除を毎日しなくてはなりません。
中でも風呂掃除は私を除く21人の内の最後の人が入り終わるまでやることができないので、待ちくたびれてよく廊下で居眠りしていました。
最後の人が入り終わったと勘違いして風呂の栓を抜き、掃除をしていたら、まだ入り終わってなかった人が現れて風呂場で血だらけになったこともありました。
ある日、2年生の先輩がニヤニヤしながら
『部屋掃除の時にみんなの布団の下を1人1人めくってみろよ』
と言われたので、次の日めくっていくと、ほとんどの人が出刃庖丁、ナイフ、本物かどうかは分かりませんがピストルまで隠していました。
今更でしたが、大変な世界へ来てしまった。と後悔する毎日でした。
でもその2年生がこんなことを言ったのです。
『ここはソマリア沖のキハダマグロ漁だからまだ序の口なんだぞ。南アフリカ沖のマグロ漁になったらもっとみんなピリピリして厳しくなるからな!』と。
そしてその先輩とお風呂に入ったとき、
身体中の傷を見せてくれ、
『これは1年生のときに誰々にやられた傷、こっちは誰々にモリで刺された傷』
と言いながら一つ一つ詳しく説明してくれました。坊主頭の先輩の頭はハゲだらけだったので、その原因を聞いてみたら、やっぱり全て鉄パイプや棒で殴られてできたハゲでした。
南アフリカ沖に行ったら私は一体どうなってしまうんだろう。
移動の日が近づいてくるのをただただ恐怖に怯えながら過ごしていく毎日なのでした。
(南アフリカ沖編)
ソマリア沖のキハダマグロ漁も終盤を迎え、遂に本番と言われる南アフリカ沖に移動する日がやってきました。
移動するためにかかる約10日間、キハダマグロ漁の漁具を全て本マグロ用の漁具にやり替える作業をします。
キハダマグロと本マグロとでは1匹の値段が全く違うんです。
例えば70kgのキハダマグロが当時の相場では7万円なのに対して、同じ重さである70kgの本マグロは70万円するのです。
南アフリカと南極大陸の間にある海域が漁場になるのですが、その海域で獲れるマグロでは最大で1匹170kgぐらいなので1匹で170万円ということになる訳です。だから漁具もキハダマグロ漁で使ったような物とは違う、高価で丈夫な漁具に交換していくのです。釣り針に付けるエサも、サバやイワシではなく、普通に人間が食べることができるスルメイカを使います。
3000本の仕掛けの内、2本マグロが釣れたら採算が取れると言われていました。だからそんな貴重なマグロなので、食い付いてきたマグロを手で引っ張り揚げるという重要な作業ができるのは3年生以上の人じゃないと許されていませんでした。もちろん私は今までと変わらずゴミ拾いや、漁具のもつれを直したりする雑用係りでした。
海の状況はソマリア沖とは別世界で、ほぼ毎日が嵐の中での仕事でした。
波高5m、6mの中で、気温は低く、海水温度も確か5℃くらいだったと思います。冷たい大波をかぶりながら、時には空からのヒョウに打たれながらの作業でした。
本当に命懸けの現場なのです。
大波にさらわれて命を落とした人もかなりいると聞きました。
中にはノイローゼになって海に飛び込んで命を断った人もいると聞かされました。
そんな話を聞かされたとき、他人事のようには聞けない心境にまでもう達していました。
毎日のように殴られるのが怖くて、痛くて、身体のあちこちが痛みで悲鳴をあげている状態での重労働。
もう身も心も限界がきていました。
寝たらまた明日がやって来る・・・
明日になるのはもう嫌だ・・・
楽になりたい・・・
もう死のう。
そう覚悟を決めたのです。
みんなが寝静まる3時間の間を狙い、釣れたマグロを冷凍してあるマイナス60℃の急速冷凍庫に入りました。
子供の頃テレビで観た雪山で遭難した時に寝たらそのまま死んでしまうという場面を思い出したのでその方法を選びました。
眠気はもう直ぐに寝付けるほどの状態でした。マグロを並べてある冷凍棚にマグロと一緒に横たわった時、寒い感覚どころではなく、痛くてなかなか眠れない。
と、その時です!
私のすぐ耳元でハッキリと罵声を浴びせるような口調で
『タカシ!自分から死ぬぐらいなら殺されろ!』
間違いなく私の祖母の声でした。
その声で私はハッとして、
そうか!殺されたらいいんだ!
自殺なんかする必要ないんだ!
自殺することほど馬鹿馬鹿しいことは
この世に無いんだ!
一瞬にして言葉には表現できない程の確信を持ちました。
それと同時に心の中からもの凄いエネルギーが湧いてきて、
『よーし!明日1日かけて絶対誰かに殺されるぞ!』
『でも俺も漁師の息子!死ぬ時くらいカッコよく死ぬぞ!』
『よーし!明日は絶対マグロが来たら真っ先に引っ張ってやる!』
『そしたら誰かが必ず俺を殺しにくるはずだ!』
もう怖いものなど何一つありませんでした。
急速冷凍庫から出るとそこは暖かくてまるで天国のように感じました。
第4章
【天国の日々】
あと3時間足らずでみんなが起きてきて仕事が始まる。
私はこれから死ぬという覚悟ができているのにも関わらずワクワクして寝ることができませんでした。
普通に考えたら精神異常な状態であったことには間違いありません。
結局一睡もせずにそのまま仕事を開始しました。
眠気など一切無く、とにかくマグロが来たら真っ先に縄を引っ張るため、舷門と呼ばれるマグロを引っ張る場所の付近だけでずっとゴミ拾いをしながら待ち構えていました。
そして数時間後その時が遂にやってきました。
1人の人が大声で
『ほら来たー!マグロやー!』
私は誰よりも素早く舷門に向かって走り、マグロが掛かっている縄を手に取って引っ張り始めました。
海面に向かって前かがみになってマグロを引っ張っている私に向かって1人の人が
『おいコラー!どけー!ワレ気が狂ったのかー!』
と怒鳴りながら思いっきり背後から蹴りを入れられました。
それでも私が引っ張るのをやめないので、今度はまた違う人が
『どけって言ってるだろがー!』
と怒鳴りながら髪の毛を掴んで私をどかそうとしました。
それでも私は当然どきません。
すると今度は鉄パイプより硬いグラスファイバー製の棒で背後から殴られました。
頭から血を流しながらもまだ私はマグロを引っ張ることをやめませんでした。
心の中で私は
『まだ殺されてない!まだまだいける!』
という強い思いだけでした。
そして、また1人の人が今度はマグロ解体用の出刃庖丁を手にして私に向かってきたその瞬間、
『おいコラー!やめんか!このあんちゃん命張ってやってるのがオメーら分からんのかー!』
私は生まれて初めて耳というものを疑いました。
まさか私の味方など居るはずがない。私のことを擁護してくれる人なんかいるはずがない。
マグロを必死で引っ張りながら、真横にいるその人を横目でみると、
本当に信じられませんでした。
中でも1番怖くて、1番私を今まで殴ってきた原さんだったのです。
『おい!あんちゃん!このマグロもし逃したらオメーそのまんま海へ投げるからな!』
私はその瞬間から
『絶対このマグロは逃がさない!絶対仕留めてやる!』
強くそう思いました。予想を遥かに超える手応え、そのマグロの重量感が手に伝わります。必死で逃げようと暴れまくるマグロ、既に私の手袋は摩擦で破れ、握力も限界まで達していました。
でも最後まで諦めませんでした。
やがて100kg近い大きなマグロが海面に浮かび、3本のモリが刺さりました。
心の中で叫びました。
『ヨッシ!』
マグロが機械で引き揚げられた直後、原さんが笑顔で私の血だらけになった頭を鷲掴みにしながら
『ワレその根性、なんで今まで出さなかったんだ!』
そう言ったあと、今度はみんなに向かって大声で
『今日からこのあんちゃんに指1本触れたら俺が赦さんからな!』
本当は死のうと思ってやっていたことなのに、全く想像もしていなかったことが結果的に起きてしまったのです。
号泣しそうになりましたがグッと我慢しました。
その日から私は誰からも殴られることがなくなり、逆に毎日みんなから可愛がってもらえるようになり、仕事も楽しくて仕方なくなりました。
地獄の日々からたった1日で天国のような毎日に変わったのでした。
おわり。
【あとがき】
読んでくださってありがとうございました。
私がなぜこの自伝書を書こうと決めたかと言いますと、それは一つの理由があるからです。
毎年、日本全国で自殺者が2万人〜3万人いることは皆さんご存知かと思います。
自殺未遂経験者の私が、今こうして生きていること、生きていて良かったと思うこと、今が幸せだと思うこと。
まさに奇跡だと感じます。
「スピリチュアル」という言葉を聞くと、大抵の人は何か特別のものだと捉えたり、中には胡散臭いと捉えたりする方もおられるように、そういうのが一般的な解釈となっているように思われます。
しかし私はここ5年くらいの間、私なりにスピリチュアルについてを探求していき、一つだけこれだけは間違いないと確信できるものを知りました。言い方を変えると、思い出したと言った方が正しい表現になります。
それは、元はみんな一つ、一人一人が真実の世界では繋がっているということです。
それを確信できた時、私の知らない誰が自殺しようが関係ないという思いが無くなったのです。
もしかしたら、私の書いた本を読んで
自殺を思いとどまる人がいるんではないかと思って書く決意に至ったのです。
どんなに辛くても自殺は正しい判断ではないということをたった一人でも気付いてもらえたら私は嬉しいと思ってこれを書きました。