もくじ

第1章 乗船のきっかけ

第2章 漁場に着くまで

第3章 地獄の日々
 (ソマリア沖編)
 (南アフリカ沖編)

第4章 天国の日々

あとがき



第1章

【乗船のきっかけ】

今から32年前の1989年、私は19才で父親が漁労長(船頭)を務める土佐カツオ一本釣り漁船に乗り、家業である漁師になりました。
私の父は仕事に厳しく、息子の私には特に厳しかった。
甘ったれのクソガキだった私はその厳しさに1年も耐えきれず、静岡県の焼津港で逃亡をしてしまいました。 
もう父親に怒られるのがどうしても嫌だったのです。
しかし、私の所持金はたったの1万円。
焼津市には友達も知り合いも居ない。
地元高知県へ帰るにはお金が足りない。
一か八かパチンコ屋へ入り勝負をしたが、勝てるはずもなく、残金500円だけになってしまった。12月の夜の寒い中、
途方に暮れた私は暗い夜道を肩を落としながら歩いていました。
すると目の前に明るい看板が見えてきました。
『スナック3匹のこぶた』
まるで吸い寄せられるかのように何のためらいもなく500円玉を握りしめてドアを開けました。
とにかく心細くて人恋しかったのを今でも憶えています。
『いらっしゃいませ!あれっ?お父さん迎えにきたの?』
私は20歳の頃、中学生にしか見えない程の童顔だったので、まさか飲みに来たとは思われなかったのです。
カウンターに座り、ビールを注文したあと、店のママに根掘り葉掘り聞かれたので、一部始終を話しました。
するとママは突然
『じゃ、あんたマグロ漁船に乗りなよ!』
と言って、すぐにマグロ漁船の会社の専務さんに電話をかけ、それから数十分後には専務さんが現れた。
そして専務さんに飲み代をご馳走してもらい、その夜から、マグロ漁船の会社の船員寮で寝泊りすることになりました。
翌日からはマグロ漁船が出港するまでの間、造船所で日払いのアルバイトをさせてもらいました。
高知の実家には専務さんに頼んで連絡をしてもらい、状況を説明してもらいました。
それから約1ヶ月が経ち、いよいよ成人の日でもあった1月15日、出港の日がやってきました。
2年近く日本を離れると聞いていたので出港直前、急に寂しさが込み上がり、高知の親友たちに電話をかけましたがみんな成人式に行って連絡がとれませんでした。
しばらく日本に帰ってこれないという不安と、海外に行けるというワクワクした気持ちで出港したのでした。 


第2章

【漁場に着くまで】

日本を離れ、アフリカ大陸の東側で赤道直下に位置するソマリア沖までの約1ヶ月間の航海が始まりました。
その期間は船員22人がみんなでマグロを釣るための漁具作りをします。
その作業以外の時間帯は、交代で見張り当直をしたり、休憩時間は自分の部屋でビデオを観たりして過ごします。
出港前に電気屋さんでテレビとビデオデッキを買って、更にビデオテープも数十本単位で各自が持っていきます。
全て観終わったら、他の人の分と交換してもらっていくのです。
みんなのビデオテープが交換でぐるぐる回って、もう新しいのが無くなってきた場合、今度は他のマグロ漁船と海上で交換していきます。ビデオテープが入った発泡スチロールの箱を海に浮かべてもらい、それを長いフックで引っ掛けて船上に引き揚げるのです。
漁場に着くまでの間はみんな仲良く、私も可愛がってもらいました。
中でも刑務所から出所してきたばかりの原さんには良くしてもらいました。
みんなからは『あんちゃん、あんちゃん』と呼ばれていました。
お風呂に入るときに気が付いたんですが、半分以上の船員が身体のどこかに刺青が入っていたり、小指が無い人もいました。
でもみんな優しくて面白い人ばかりでした。
まさかこの後、漁場に着いてからみんなの態度が信じられない程、豹変するなんて、これっぽっちも思っていなかったのでした。


第3章

【地獄の日々】
(ソマリア沖編)

日本を離れて約1か月が経ち、遂に最初の漁場である赤道直下のソマリア沖に到着しました。経験したことがない厳しい暑さと湿気で仕事中は汗だく、そして身体中が潮かぶれという皮膚炎、更に漁具に絡んでくるクラゲには毎日のように刺されていました。
マグロ延縄漁は船をゆっくり走らせながら6時間かけて約3000本の釣り針に1本ずつ丁寧にサバやイワシを取り付けて海に流していきます。
そしてその作業が終わった3時間後に今度は12時間から17時間くらいかけて3000本の漁具を1本ずつ船に揚げていくのです。
私の主な作業は、狙いのマグロ以外で釣れてきたサメを出刃包丁で殺してフカヒレとなるヒレを切り取ったり、散らかった魚の内臓などを拾い集めては海に捨てたり、海鳥が飲み込んできた釣り針を鳥の腹を出刃庖丁で割いて取り出すというような雑用ばかりでした。
マグロ漁船1年生は皆そういうことから始めるのがこの船の常識で、他にもみんなのタバコに火を点けて配ることや、コーヒーを入れたりするのも1年生の仕事でした。
1年生とは言っても1年生は私1人だけでしたので、それは過酷なものでした。
誰か1人にコーヒーを頼まれた時に、その人が普段飲んでるコーヒーはブラックコーヒーなのに、間違えて砂糖でも入れて持っていくと、
『あんちゃん!ワレ俺がブラックと分かってて砂糖入れただろ!』
って言いながら顔にぶっ掛けられることがよくありました。その逆も当然あり、砂糖を入れないといけない人にブラックコーヒーを持っていってぶっ掛けられたこともありました。
作ったばかりの98℃の熱湯でしたので、熱いなんてもんではなかった。
熱がる私を見てみんなが大笑いするという具合でした。
だから、私は1人1人のコーヒーの種類を身体で覚えていったのです。
タバコの場合も同じようなパターンで、『あんちゃん!パッパッパッ』
『はい、何でしょうか?』と言いながら近づいていくと
『パッパッパッはタバコだろ!』と怒鳴られながら顔面を殴られ、慌ててタバコを取りに行くと、タバコ置き場には何種類ものタバコがズラリ。
何の銘柄か聞きに行ったらまた殴られると思い、一か八かマイルドセブンを恐る恐る持っていくと今度は
『ワレ!俺がキャビン吸ってるの分かっててコレ持ってきたんだろ!』そう言われてまた殴られて転んでそのタバコを箱ごと落として濡れたのをまた今度はそのマイルドセブンの持ち主に
『ワレ!俺のタバコを濡らしやがって!』と怒鳴られながらまた殴られるのです。
仕事中はほぼ毎日こんな日が続きました。
仕事終わりは身も心もクタクタで、そんな時に1人の人が優しい顔で
『あんちゃん、疲れたか?』と聞かれ、ここでもし疲れましたなんて言うとまた殴られると思い、『疲れてないです!』
と答えると
『仕事を一生懸命やってないからや!』と怒鳴られ殴られました。
次の日の仕事終わりにまた同じ人から同じ質問をされ、もう殴られたくはないので
『疲れました!』って答えると
『ワレだけやないんや!』と怒鳴られ殴られました。
血だらけになっている私をニヤニヤしながら見て
『あんちゃん、痛いか?』
『ハイ、痛いです。』
『生きてる証拠や!』
このやり取りが何度あったか覚えていません。
その日の仕事が終わっても一年生の私だけはまだ終われません。
みんながそれぞれの部屋に戻る前に急いで1人1人の部屋の掃除、ゴミ回収、そしてトイレ掃除、最後に風呂掃除を毎日しなくてはなりません。
中でも風呂掃除は私を除く21人の内の最後の人が入り終わるまでやることができないので、待ちくたびれてよく廊下で居眠りしていました。
最後の人が入り終わったと勘違いして風呂の栓を抜き、掃除をしていたら、まだ入り終わってなかった人が現れて風呂場で血だらけになったこともありました。
ある日、2年生の先輩がニヤニヤしながら
『部屋掃除の時にみんなの布団の下を1人1人めくってみろよ』
と言われたので、次の日めくっていくと、ほとんどの人が出刃庖丁、ナイフ、本物かどうかは分かりませんがピストルまで隠していました。
今更でしたが、大変な世界へ来てしまった。と後悔する毎日でした。
でもその2年生がこんなことを言ったのです。
『ここはソマリア沖のキハダマグロ漁だからまだ序の口なんだぞ。南アフリカ沖のマグロ漁になったらもっとみんなピリピリして厳しくなるからな!』と。
そしてその先輩とお風呂に入ったとき、
身体中の傷を見せてくれ、
『これは1年生のときに誰々にやられた傷、こっちは誰々にモリで刺された傷』
と言いながら一つ一つ詳しく説明してくれました。坊主頭の先輩の頭はハゲだらけだったので、その原因を聞いてみたら、やっぱり全て鉄パイプや棒で殴られてできたハゲでした。
南アフリカ沖に行ったら私は一体どうなってしまうんだろう。
移動の日が近づいてくるのをただただ恐怖に怯えながら過ごしていく毎日なのでした。


(南アフリカ沖編)

ソマリア沖のキハダマグロ漁も終盤を迎え、遂に本番と言われる南アフリカ沖に移動する日がやってきました。
移動するためにかかる約10日間、キハダマグロ漁の漁具を全て本マグロ用の漁具にやり替える作業をします。
キハダマグロと本マグロとでは1匹の値段が全く違うんです。
例えば70kgのキハダマグロが当時の相場では7万円なのに対して、同じ重さである70kgの本マグロは70万円するのです。
南アフリカと南極大陸の間にある海域が漁場になるのですが、その海域で獲れるマグロでは最大で1匹170kgぐらいなので1匹で170万円ということになる訳です。だから漁具もキハダマグロ漁で使ったような物とは違う、高価で丈夫な漁具に交換していくのです。釣り針に付けるエサも、サバやイワシではなく、普通に人間が食べることができるスルメイカを使います。
3000本の仕掛けの内、2本マグロが釣れたら採算が取れると言われていました。だからそんな貴重なマグロなので、食い付いてきたマグロを手で引っ張り揚げるという重要な作業ができるのは3年生以上の人じゃないと許されていませんでした。もちろん私は今までと変わらずゴミ拾いや、漁具のもつれを直したりする雑用係りでした。
海の状況はソマリア沖とは別世界で、ほぼ毎日が嵐の中での仕事でした。
波高5m、6mの中で、気温は低く、海水温度も確か5℃くらいだったと思います。冷たい大波をかぶりながら、時には空からのヒョウに打たれながらの作業でした。
本当に命懸けの現場なのです。
大波にさらわれて命を落とした人もかなりいると聞きました。
中にはノイローゼになって海に飛び込んで命を断った人もいると聞かされました。
そんな話を聞かされたとき、他人事のようには聞けない心境にまでもう達していました。
毎日のように殴られるのが怖くて、痛くて、身体のあちこちが痛みで悲鳴をあげている状態での重労働。
もう身も心も限界がきていました。

寝たらまた明日がやって来る・・・
明日になるのはもう嫌だ・・・
楽になりたい・・・

もう死のう。

そう覚悟を決めたのです。
みんなが寝静まる3時間の間を狙い、釣れたマグロを冷凍してあるマイナス60℃の急速冷凍庫に入りました。
子供の頃テレビで観た雪山で遭難した時に寝たらそのまま死んでしまうという場面を思い出したのでその方法を選びました。
眠気はもう直ぐに寝付けるほどの状態でした。マグロを並べてある冷凍棚にマグロと一緒に横たわった時、寒い感覚どころではなく、痛くてなかなか眠れない。
と、その時です!
私のすぐ耳元でハッキリと罵声を浴びせるような口調で

『タカシ!自分から死ぬぐらいなら殺されろ!』

間違いなく私の祖母の声でした。
その声で私はハッとして、

そうか!殺されたらいいんだ!
自殺なんかする必要ないんだ!
自殺することほど馬鹿馬鹿しいことは
この世に無いんだ!

一瞬にして言葉には表現できない程の確信を持ちました。
それと同時に心の中からもの凄いエネルギーが湧いてきて、
『よーし!明日1日かけて絶対誰かに殺されるぞ!』
『でも俺も漁師の息子!死ぬ時くらいカッコよく死ぬぞ!』
『よーし!明日は絶対マグロが来たら真っ先に引っ張ってやる!』
『そしたら誰かが必ず俺を殺しにくるはずだ!』

もう怖いものなど何一つありませんでした。
急速冷凍庫から出るとそこは暖かくてまるで天国のように感じました。


第4章

【天国の日々】

あと3時間足らずでみんなが起きてきて仕事が始まる。
私はこれから死ぬという覚悟ができているのにも関わらずワクワクして寝ることができませんでした。
普通に考えたら精神異常な状態であったことには間違いありません。
結局一睡もせずにそのまま仕事を開始しました。
眠気など一切無く、とにかくマグロが来たら真っ先に縄を引っ張るため、舷門と呼ばれるマグロを引っ張る場所の付近だけでずっとゴミ拾いをしながら待ち構えていました。
そして数時間後その時が遂にやってきました。
1人の人が大声で

『ほら来たー!マグロやー!』

私は誰よりも素早く舷門に向かって走り、マグロが掛かっている縄を手に取って引っ張り始めました。
海面に向かって前かがみになってマグロを引っ張っている私に向かって1人の人が

『おいコラー!どけー!ワレ気が狂ったのかー!』

と怒鳴りながら思いっきり背後から蹴りを入れられました。
それでも私が引っ張るのをやめないので、今度はまた違う人が

『どけって言ってるだろがー!』

と怒鳴りながら髪の毛を掴んで私をどかそうとしました。
それでも私は当然どきません。
すると今度は鉄パイプより硬いグラスファイバー製の棒で背後から殴られました。
頭から血を流しながらもまだ私はマグロを引っ張ることをやめませんでした。
心の中で私は

『まだ殺されてない!まだまだいける!』

という強い思いだけでした。
そして、また1人の人が今度はマグロ解体用の出刃庖丁を手にして私に向かってきたその瞬間、

『おいコラー!やめんか!このあんちゃん命張ってやってるのがオメーら分からんのかー!』

私は生まれて初めて耳というものを疑いました。
まさか私の味方など居るはずがない。私のことを擁護してくれる人なんかいるはずがない。
マグロを必死で引っ張りながら、真横にいるその人を横目でみると、
本当に信じられませんでした。
中でも1番怖くて、1番私を今まで殴ってきた原さんだったのです。

『おい!あんちゃん!このマグロもし逃したらオメーそのまんま海へ投げるからな!』

私はその瞬間から
『絶対このマグロは逃がさない!絶対仕留めてやる!』
強くそう思いました。予想を遥かに超える手応え、そのマグロの重量感が手に伝わります。必死で逃げようと暴れまくるマグロ、既に私の手袋は摩擦で破れ、握力も限界まで達していました。
でも最後まで諦めませんでした。
やがて100kg近い大きなマグロが海面に浮かび、3本のモリが刺さりました。
心の中で叫びました。
『ヨッシ!』
マグロが機械で引き揚げられた直後、原さんが笑顔で私の血だらけになった頭を鷲掴みにしながら

『ワレその根性、なんで今まで出さなかったんだ!』

そう言ったあと、今度はみんなに向かって大声で

『今日からこのあんちゃんに指1本触れたら俺が赦さんからな!』

本当は死のうと思ってやっていたことなのに、全く想像もしていなかったことが結果的に起きてしまったのです。
号泣しそうになりましたがグッと我慢しました。
その日から私は誰からも殴られることがなくなり、逆に毎日みんなから可愛がってもらえるようになり、仕事も楽しくて仕方なくなりました。
地獄の日々からたった1日で天国のような毎日に変わったのでした。

              おわり。


【あとがき】

読んでくださってありがとうございました。

私がなぜこの自伝書を書こうと決めたかと言いますと、それは一つの理由があるからです。

毎年、日本全国で自殺者が2万人〜3万人いることは皆さんご存知かと思います。
自殺未遂経験者の私が、今こうして生きていること、生きていて良かったと思うこと、今が幸せだと思うこと。
まさに奇跡だと感じます。

「スピリチュアル」という言葉を聞くと、大抵の人は何か特別のものだと捉えたり、中には胡散臭いと捉えたりする方もおられるように、そういうのが一般的な解釈となっているように思われます。

しかし私はここ5年くらいの間、私なりにスピリチュアルについてを探求していき、一つだけこれだけは間違いないと確信できるものを知りました。言い方を変えると、思い出したと言った方が正しい表現になります。

それは、元はみんな一つ、一人一人が真実の世界では繋がっているということです。

それを確信できた時、私の知らない誰が自殺しようが関係ないという思いが無くなったのです。
もしかしたら、私の書いた本を読んで
自殺を思いとどまる人がいるんではないかと思って書く決意に至ったのです。

どんなに辛くても自殺は正しい判断ではないということをたった一人でも気付いてもらえたら私は嬉しいと思ってこれを書きました。



浦島は4歳のときにお母さんが蒸発しました。

それからはオバアちゃんが母親になってしまった…

ここまでは普通によくある話。

だが、このオバアちゃんこそ、あの佐賀のがばいばあちゃんに勝る程のオバアちゃんの始まりになったのである。

近所の人達からは家が路地の奥にあることから
『奥やん奥やん』と呼ばれ親しまれ…てはいなかったガーン

《小学1年血まみれ事件》
浦島『今日は参観日か~ニコニコオバアちゃんにいいとこ見せないとなぁニコニコ

先生『今日はみなさ~ん、参観日なので、先生が知らないことをみなさんに教えてもらいますね!海の生き物で指で触ったら潮水が飛び出てくる生き物の名前を知ってる人アップ?さぁ分かった人は手を挙げてアップ

浦島の心の中『答えはイソギンチャクだけど、ここであっさり普通に答えたらオバアちゃんに怒らてしまう…』

浦島『はい!パー

先生『あっ早い!タカシくん!はいどうぞ!』

浦島『先生のオシッコアップ

後ろからお母さん達の笑い声ニコニコ

そのときです!

ガツーン!!

浦島は血だらけになりましたショック!

オバアちゃんにツエで頭を思いっきりなぐられたのですショック!
先生やお母さん達が止めに入っても叩くのをなかなかやめませんでした。
しかもそのあとオバアちゃんは息を切らしながらこう言いました。

『先生!この子がもし不真面目なことを言うたりしたら遠慮なくブチ殺してください!』とショック!

保健室で手当てをしてもらい、その日は頭に包帯をぐるぐる巻いて家に帰りました。
家に帰ったらオバアちゃんにまた謝って許してもらいましたショック!

いまじゃ懐かしいな~ニコニコ

今でも頭のハゲを鏡で見たら思い出しますニコニコ


《小学六年の参観日事件》

その日の参観日の授業科目は算数でした。
俺は算数が1番得意だったので、今日はオバアにいいところを見せたくて朝からウキウキしていました。

参観日の時はいつもオバアは重役出勤で、授業の中間ぐらいにやってきます。

そして教室に入ってくるとどんな空気であろうと、先生に後ろから大声で

『先生すみません!イスをひとつ貸してください!』

と言って授業を中断させてしまうのでした。

その日もいつものようにイスを要求して座り、その次はなんと、今の時代ではとても考えられない話なんですが、タバコを吸い始めるのです。

先生もオバアには特別扱いしていましたし、周りのお母さん方達も、オバアにはかなり気を使っていました。多分それは過去にいろんな恐ろしい伝説を作ってきたので恐れられていたのでしょう。

だからオバアが教室に入ってきただけでも急に授業中の空気もぜんぜん変わってしまうのです。
もちろん本当の空気もタバコの煙りで変わってしまいましたけどね。

教壇の上にいる先生の声も緊張でトーンが1つ上がって授業が再び始まってしまうような感じでした。

どんな先生が担任になっても6年間ずっとそうでした。
オバアが教室の後ろでタバコを吸い始めて少し時間が経ってからのことでした。
先生が突然

『よ~し今日は参観日だから、ちょっと難しい応用問題を出してみようかな!』

そう言って黒板に問題を書きはじめたのです。

俺達生徒は『え~っ』って叫びながら顔を見合わせて苦笑いをしていました。

でも俺だけは『よっしゃキター!』と心の中で叫んでいました。

先生は黒板に問題を書き終えると、こう言いました。

『さぁこの問題を1番に答えて正解するのは誰かな~?ハイ考えてー!分かった人は手を挙げて!』

俺は黒板を見ながら必死で問題を解いていましたが、1分もしない内に先生が驚いた声で

『あっ!どっどうぞ!』

その瞬間、俺は
『やられたー!誰が俺より先に答えを出したんやー!?』と思って周りを見渡してみたんだけど誰も手を挙げていない。

不思議に思い、先生の顔を見てみると、その視線の先は教室の後ろの方に向かっている。

まさかと思い後ろを振り返ってみると、

なんとまさかのオバアがイスに座ったまま斜め45度の角度で手を挙げているではないですか!

もちろん生徒達もお母さん方もみんなオバアに注目しました。
そしてもう一度先生が恐る恐るオバアに

『おばあさん…どうぞ!』

そう言うと、キョトン顔をしたオバアは今にでも灰が落ちそうなタバコを片手に持ったまま

『いや先生、灰皿をひとつ貸してもらえんやろか?』

と答えたのでした。
      おわり。笑


《高校3年パチンコ事件》

小学生の頃は、休み時間に硬筆の紙で紙飛行機を飛ばしていただけでも、学校から帰ると先生からの通報で包丁を持って追い掛けてきたオバアも、高校3年生にもなると、昔とは全く違って孫の俺には凄く甘くなりました。

例えば学校に行くとき、俺が玄関を開け

『行ってくるわ~』

というと、オバアは必ず

『忘れ物はないか?ちゃんとタバコは持ったんか?』

と、こんな感じでした。

俺は高校時代、学校の授業はろくに出ず、パチンコばかりしていました。
当時の高校生じゃ考えられない程の小遣いを貰っていたので、パチンコ代には不自由しませんでした。

おそらくオバアは小遣いをたっぷりあげとかないと万引きでもされたら困ると思っていたのでしょう。

パチンコに行っていたこともあんまり怒られた記憶がありません。

それどころか『行くのはいいけどちゃんと勝ってこいよ!』
とか言われていました。
今考えると、どんなオバアやねんって正直思います。まっ孫も孫なんですが。

こんな感じで高校に入ってからはオバアとはフレンドリーな関係で仲が良かったのでした。

平日のある日、俺はいつものように学校をサボり、パチンコを打っていた。
すると突然後ろから

『うらしま~遂に見つけたぞ~!』

という声が。
恐る恐る振り返って見るとそこには生徒指導の中でも1番怖がられている後藤先生がジャージ姿で立っていた。

パチンコ店の外へ出ると後藤は俺にこう言った。

『うらしま~、今日のところは停学処分は許してやるから、二度とパチンコはするんじゃないぞ!』

俺は後藤に

『分かりました先生!ありがとうございます!』

そう答えると後藤は

『そのかわり、家にはちゃんと連絡しとくからな!』

そう言って許してもらい、後藤は学校に帰っていきました。

パチンコが見つかって停学をくらった仲間をたくさん知っていたので、俺は超ラッキーと思い慌てて家に帰りました。

なぜ慌てて帰ったかと言うと、オバアには変な癖があって、とにかく余計なことをペラペラと言ってしまうところがあるからでした。
もし後藤から電話がかかってきたときに、オバアが余計なことをペラペラ喋ったりして後藤の機嫌でも損ねてしまったら大変だと思ったからなのです。

家に帰り着き、慌ててオバアに一部始終を話すと、オバアは一言

『それで今日は勝ったんか?』

そんなのんきなことを言っていた。

俺は後藤から電話がかかってくる前にオバアにこう頼んだ。

『オバア!電話に出ても絶対余計なことは一切言うなよ!ただひたすら謝ってくれたらいいから!停学許してくれたんやから絶対余計なことだけは言わんでくれよ!』

そう言うとオバアは半分怒った口調で

『オラ~何も余計なことなど言わんわ!ただ謝るだけでいいやないか!』

そう言ったので少し安心して電話を待っていた。
すると

【チリリリーン~チリリリーン】

俺はオバアが電話の受話器を取ろうとしたので、もう一度念を押して余計なことを言うなと言った。

するとオバアは「任せとけ」みたいなジェスチャーをしながら受話器を取った。

『はいはいうらしまです。はい、はい、え?うちのタカシが?いや先生それは何かの間違いやないですか?』

俺はオバアの横で声を出さずに口パクで

[余計なこと言うなって!]

と必死でオバアに伝えた。でもオバアはニヤリと半笑いしながらまた任せとけみたいな顔をする。

『いや先生、わたしの監督不十分で迷惑おかけしました。え?停学を?いや先生そんなこと言わずに退学にしてください!』

俺があれ程にまで余計なことを言うなと念を押してまで言ったのにも関わらず、そんなことを調子に乗って言っているので、俺は興奮度MAXになり、怒りモードの口パクで今度は

[もう!早く切れや!]

そう伝えた。
しかしオバアは「うるさいわ!任せとけ!」みたいなジェスチャーをして話しを続けた。

オバアはそのうち涙口調になっていき

『先生、ありがとうございます。停学を許してくださってほんまにありがとうございます。はい、はい…』

俺はよしよしと思い、微笑みながらオバアにまた口パクで

[オッケーオッケーもういいから早く切れや!]

そう必死で伝えた。しかしオバアは涙を流しながらもまた怒った顔つきで「任せとけ」みたいなジェスチャーをしながら俺をにらみつけた。

そしてオバアは

『はい、はい、先生わかりました。はい、はい、ありがとうございました…』

おそらく後藤先生ももう電話を切ろうとしていたのだと思います。しかしオバアはやはりこのままでは終わらせなかった…

オバア『あっ!先生!ちょっと待ってください!』

後藤『はい?何か?』

オバア『いや先生、うちのタカシは不良ですし、ダメな子なんですけど、実は優しいところもあるんですよ…』泣

後藤『えっ?はぁ…何でしょうか?』

オバア『うちのタカシはパチンコには行きますけんど、勝った時にはちゃんと私のためにタバコに換えてきてくれるんですよ』号泣


何のフォローにもなってないやんあせるしかも墓穴掘ってるしあせる

次の日、学校で後藤に呼ばれ、一言

『うらしま~!おまえんとこのばあちゃんなかなかおもろいな~ワッハッハッハ』
終わり。笑

《オバア痩せこけ事件》

オバアが100才、浦島が35才の時の話です。

オバアは老人ホームにいました。

オバアに会うのは約二年ぶりでワクワクしてました。
ところがオバアに会った瞬間、浦島はビックリしました。

オバアの体はまるで骨と皮。
思わずオバアに言いました。

『オバア!なんやその体は!』

するとオバアはこっちを見て

『おまん誰ぞよ?』

それを聞いて安心しました。

心の中で『出た!演技!ボケたふりして同情してもらおう作戦やな!』と。笑

そのあと浦島は言いました。

『オバア!どうでもいいけど、ちゃんとメシ食うてるんか?ちゃんと食わんかったら死ぬぞ!』

するとオバアはしかめっつらをしてこう言いました。

『おらー早く死にたくて死にたくて毎日死んだオジイに早く迎えにきてくれっておがんでるんや…』

浦島はその言葉に腹が立ちタバコをポケットから出して言いました。

『ほら!タバコ吸えや!』
するとオバアは小声で言いました。

『おらータバコは去年やめた…』

浦島は大爆笑して言いました。

『オバア99才まで吸うとったんかい!』


そして、最後に浦島はオバアに言いました。

『ちゃんとメシ食うて、次きたらもっと元気になっとけよ!』と。

するとオバアは辛そうな表情で
『お~の言うてくれるな…おらー早く死にたいんじゃ…』涙

浦島は
『はいはい、じゃーまたね』笑


[それから一週間後]

浦島『オバアまたきたぞー!』

オバア『おまん誰ぞよ?』

浦島『はいはい、演技はもういいから!笑、ていうかオバア!この前よりまた痩せこけとるやんか!ちゃんとメシ食うてるんか!』

するとオバアは前回は全く見せなかった怒りの表情でこう言いました。

『メシ食うてるんかやと!何を言うてるんやアホー!ここのメシが食えると思ってるんか!ほんまにここの人間はおらを殺す気じゃ…』怒

浦島『オバア!この前来たときは早く死にたい言うてたやないか!』大爆笑

オバア『…。キョトン顔』

終わり。笑
この話は今から22年前の出来事でした。
20才から遠洋マグロ漁船に乗り始めましたが、一度日本を離れると約1年3ヶ月から1年8ヶ月は帰ってこれないという気が遠くなるような仕事でした。
海外は遠く南アフリカ共和国のケープタウンという街に約3ヶ月置きに寄港していました。
マグロを捕る漁場がそのケープタウンに近いので、食糧補給や燃料補給をそこでしていたのです。
マグロの漁場は南アフリカと南極との間にあり、時々流氷が流れてくることもありました。
そして岩とびペンギンのペポ吉とはそこで出会ったのであります。

ある日の真夜中の仕事中、いつものようにマグロ漁をしていると、船のすぐそばに小型のペンギンの群れがやってきた。
海面をバタフライするような泳ぎ方で、それはもう何百という数の群れでした。初めて見た光景に興奮したのを忘れません。
一人の年輩の船員が大声で『早くペンギンを捕まえろー!』というと、みんな仕事を放置して、長い棒が付いた網を持って、次から次へとみんなでペンギンをすくい上げました。
20羽ぐらいは上げたでしょうか。体長50センチ程の小さい岩とびペンギンは慣れない船の上のデッキをヨチヨチ歩きながら、歩いては転び歩いては転びしてみんなを笑わせてくれました。それから約1時間後、あまりの数の多さで、ペンギン達が仕事の邪魔にもなるということで2羽だけ残し、他は全部海に逃がしてやろうということになりました。そして残った2羽のペンギンに俺が『ぺぺ』と『ポポ』という名前を付けたのです。

ぺぺとポポは仲が悪く、いつも喧嘩ばかりしていました。でもその喧嘩を見て漁師のみんなは心が和んでいたのです。
追いかけあって走りすぎて勢い余って転んだり、ジャンプして失敗して転んだり、とにかく見ていて飽きることはありませんでした。でもこの岩とびペンギンには物凄い精神力があることを知った日があったのです。
10段くらいある階段を一段ずつピョンピョン上がって逃げようとするので、その階段に段ボールを斜めに敷き詰めて上がれないようにしました。段ボールの傾斜角度は約80度。
それでもぺぺは口ばしを段ボールに突き刺して、短い両手両足をバタバタさせながらよじ登ろうとします。自分の身長の何倍もある高さの位置から転げ落ち、また転げ落ちの繰り返しでした。
そのマヌケな姿が可愛くて面白くて漁師のみんなは大笑いしていました。
それから約30分後ぐらいでしょうか。失敗を数十回繰り返したあげく、遂になんとぺぺはその階段を登りきったのです。これにはみんな本当に驚かされ、全員が歓声をあげながら拍手をしました。
何十回も口ばしを突き刺していったことで、毎回その穴が少しずつ上へ上へと移動していき、振り出しに戻っても諦めずに自分が口ばしで付けた穴を頼りに登りきったのです。

ぺぺもポポもマグロのシッポの付け根に付いている身が大好物でした。もちろん人間でも刺身で食べたら高級食材にもなる脂がたっぷり乗った部分です。
とにかくよく食べよくウンチをするんです。
俺は毎朝1番に起きてきて、まずはそのウンチを海水で流すことから始まりました。
ある日のこと、船の中で1番権力のある船頭からこう言われたのです。
『浦島よ、隣の船で飼ってたペンギンが逃げたみたいなんだよ。だからぺぺかポポを隣の船にあげてもいいか?』
俺は絶対嫌だったんだけど、船頭からの頼みを断ることはできなかったので仕方なくポポを里子に出す決意をしたのでした。
翌日ポポは隣の船に渡され、その船の船頭からはお礼としてウイスキーが1ケース届きました。
急にポポがいなくなって寂しくなり、ぺぺも喧嘩相手が急にいなくなったので寂しそうでした。
ポポがいなくなって寂しかったので、俺はその日からぺぺをペポ吉と改名したのでした。

ペポ吉はよく海を眺めていました。
自分の故郷である島を思い出していたのでしょうか。集団で泳いできて船に上げられてから約二ヶ月が経とうとしていました。
ある朝のこと、いつものように早起きをしてペポ吉のウンチ掃除をしに行きました。
ところがペポ吉の姿がないのです。
焦りまくってあちこちを捜しました。船の端から端まで。半泣きになりながら捜しました。マストの上まで登って捜しました。
でもペポ吉の姿はどこにもありませんでした。
海を眺めて一人で号泣しました。
その日は全く仕事になりませんでした。
ペポ吉のために作った小屋の中は空っぽで、それを見ると余計辛くなりました。他の漁師たちもその日はみんな寂しそうでした。
仕事が終わって部屋に戻り、普段は呑まないのにその日だけは泣きながら酒をたくさん呑みました。
あまりにも辛かったので、船舶国際電話で幼なじみに電話をかけ、ペポ吉の一部始終を泣きながら話しました。
すると夜中に起こされた幼なじみは寝言のようにこう言いました。
『ペポ吉も帰りたかったんだよ』って。
その言葉でハッと気付かされたのです。そんな当たり前のことにも気が付かないぐらい俺はペポ吉がいなくなってしまった現実を受け入れることができず暗闇に落ちていたのです。 その夜は日本の友達がケープタウンにわざわざ送ってきてくれた山崎まさよしの曲を聴いて自分を慰めようとしました。
タイトル『ONE MORE TIME,ONE MORE CHANCE』
歌の歌詞が更に俺の涙を加速させるのでした。
[いつでも捜しているよ。どこかに君の姿を。向かいのホーム、路地裏の陰、こんなとこにいるはずもないのに………]

ペポ吉がいなくなってから約1年後、船は無事に日本へ帰ってきました。
ペポ吉と別れてから1年が過ぎているのにも関わらずまだペポ吉に逢いたくて逢いたくて仕方ない気持ちでいっぱいでした。
当時、俺は京都に住んでいました。
そうだ!でかい本屋に行けばペンギンの写真集があるに違いない!その中に岩とびペンギンも必ず載っているだろう!そう思い、本屋へ向かいました。 そして市内で1番大きな本屋に着き必死でペンギンの写真集を探しました。
ペポ吉に逢えるという思いで探しました。
そしてやっとその写真集を見付け出し、ページをめくりペポ吉を発見したのです。もちろん他の岩とびペンギンだろうけど、その時の俺にはペポ吉にしか見えませんでした。
やっと逢えたという想いで涙が溢れ出し、そしてその本に書かれてあった記事を読んで更に号泣してしまったのです。その記事にはこう書かれていたのです。
『岩とびペンギンはオスが卵を温め、その間、パートナーであるメス同士が集団となって数百キロも離れた海に何日もかけて向かい、産まれてくる我が子の餌を捕ってくる。その何日もの間、卵を温めているオスはパートナーのメスの帰りを待っている間、一切飲まず食わずの絶食状態である。』
あのとき、ペポ吉が階段を必死で登って逃げようとしていたのも、寂しそうに海を眺めていたのも…
そう思うと自分たちがしたことの愚かさ、残酷さに…胸がいっぱいになり、声を出して泣いてしまっていた。ペポ吉ごめんよ、ペポ吉…。おまえもおまえの家族までも俺は殺してしまったのかもしれない。

気が付いたら店員さんが駆け付けてきて、どうされましたか?って聞いてきた。周りを見たら大勢の人がジロジロ見ている。
きっと頭がおかしい人だと思われたんだろう。
ペンギンの写真集を開いて泣きじゃくっているんだから。

【ペポ吉へ】

俺はあのとき君も君の大事な家族までも殺してしまったのかもしれない。
謝っても謝りきれない。

22年経った今でも俺は君にしたことを後悔して悔やんでいる。

君がたった一人ぽっちで島へ帰ってる姿を想像するだけで今でも涙が溢れてくる。

でも君がその小さい体で俺に教えてくれたことは絶対忘れないよ。
どんな壁だろうと諦めずに失敗してもくじけずに少しずつでもはい上がっていけば、必ず目標に辿り着けるっていうことを。

いまさら自分勝手な願いだけど、あのとき君が無事に家族のいる島へ辿り着いていてほしい。

ごめんよペポ吉。
そしてありがとう。

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