邪馬台国までの「水行陸行帯方郡起点説(仮)」を考える | 邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国と日本書紀の界隈

邪馬台国・魏志倭人伝の周辺と、まったく新しい紀年復元法による日本書紀研究についてぼちぼちと綴っています。

 前記事では、「魏志倭人伝」の行程に関する「放射説」について考えました。

 今回は、近年よく語られるようになった説について考えてみたいと思います。しいてその説に名称を付けるとすると「水行陸行帯方郡起点説(仮)」とでもいえるでしょうか。

 

 まず、行程記述を掲載して話を進めます(図表1)。

 

◆図表1 「魏志倭人伝」の行程記述

 

 「水行陸行帯方郡起点説(仮)」は、図表1の邪馬台国への行程記述(「南至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月」)の起点を帯方郡(たいほうぐん)だとする説です。つまり、「帯方郡から邪馬台国までは水行で10日、陸行で月を要する」というのです。行程イメージは図表2のようになります。

 

◆図表2 「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の行程図

 

 私は、この説はかなり恣意的な解釈だと思っています。

 まず、邪馬台国への行程記述の頭に、「自郡至女王国万二千余里」の「自郡(帯方郡より)」のような語句が付いていません。それでも、その起点が帯方郡だというのなら、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)、不彌国(ふみこく)への行程記述の起点も帯方郡でなければなりません(対馬国(つしまこく)へは「初めて海を渡る」とあるので起点は狗邪韓国(くやかんこく)であることが明白、一大国(いちだいこく)、末盧国(まつらこく)へは「又」の字があるので順次繋がっていることが明白なので除きます)。しかし、その読み方ができないのは明白です。帯方郡からわずか500里や100里といった近隣の地に伊都国や奴国があることは考えられないからです。

 

 また、帯方郡を起点とすると、邪馬台国の位置があまりにもぼやけてしまいます。帯方郡から南へ水行10日、陸行1か月でたどり着ける場所などあまりにも範囲が広すぎます。「魏志倭人伝」の原史料となったのは郡使の報告書だと考えられていますが、こんな再現性のない報告は許されるはずはありません。

 さらに、「水行陸行帯方郡起点説(仮)」では、投馬国(とうまこく)の扱いが説明できません。邪馬台国へのルートとは別ルートで、なおかつ邪馬台国との相対的な位置関係が書かれていない投馬国に言及する必然性はまったくないのです。

 

 では、百歩ゆずって、「南至邪馬台国」は前国からの方向であり、「水行十日陸行一月」は帯方郡からの日数であると、好意的に解釈してみるとどうでしょうか。行程イメージは図表3のようになります。

 

◆図表3  「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の行程図(別解釈案)

 

 一見、これなら整合性がとれているのではと思ってしまいそうです。

 しかし、よく見ると齟齬が生じているのがわかります。不彌国から投馬国、投馬国から邪馬台国への距離(里数)が書かれていないのです。そうすると、肝心の位置関係がわからないということになります。100里なのか1000里なのかで邪馬台国の位置は大きく変わります。これでは邪馬台国までの行程を報告したことにはなりません。

 

 さらに好意的に、不彌国の南に投馬国が、その南に邪馬台国が隣接していたと考えてみましょう(ただし、私は「魏志倭人伝」の二国間の里数は、郡使が立ち寄った拠点集落から次国の拠点集落までの距離だと考えていますから、国域が隣接していても距離(里数)は発生すると思っています)。

 それでもやはりおかしなことになります。

 帯方郡から邪馬台国までの全行程に要した日数が、水行で合計10日、陸行で1か月だとします。すると、なぜその行程上にある投馬国に陸行の期間がないのでしょうか。明らかに末盧国から不彌国までは陸行しています。合計700里です。それが入っていないということは、やはり「水行陸行帯方郡起点説(仮)」の読み方は成立しないということだと思います。帯方郡から邪馬台国までの全行程の水行「10日」より、帯方郡から投馬国への水行「20日」の方が長いというのも明らかに説の破綻を物語っています。

 

 前記事、本記事の考察から、やはり「魏志倭人伝」の行程記述は「連続説」で読まなければならないと考えて、結論とします。

 

▼▽▼邪馬台国論をお考えの方にぜひお読みいただきたい記事です

邪馬台国は文献上の存在である!

文献解釈上、邪馬台国畿内説が成立しない決定的な理由〈1〉~〈3〉

 

★令和元年5月1日発売の新著です!

 

お読みいただきありがとうございます。よろしければクリックお願いします。

にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ   
にほんブログ村   古代史ランキング

 

*****

拙著『邪馬台国は熊本にあった!』(扶桑社新書)