あけましておめでとうございます。
稲荷山鉄剣銘文の獲加多支鹵大王が雄略天皇だというのは、いまや鉄板の定説といってよいでしょう。しかし、雄略天皇の治世がいつからいつまでだったかという話はほとんど耳にすることがありません。
定説化の過程を想像すると、おそらく鉄剣銘文の辛亥年を471年と推定した方々が、『日本書紀』の紀年からその年を雄略天皇の治世と判断して、「獲加多支鹵」を「ワカタケル」と読めば、雄略天皇の諱である「大泊瀬幼武」の「ワカタケ(注:厳密にはワカタケルではない)」と一致する。獲加多支鹵は雄略天皇に違いない!と考えられたのだと思います。
☆銘文の記された鉄剣が出土したさきたま古墳群の稲荷山古墳
『日本書紀』の設定する雄略天皇の治世は、457年から479年です。中国史書『宋書』の記す倭王武は478年に遣使朝貢していますから、一般的に武は雄略天皇であるというのも定説化しています。
しかし一方で、倭王興が安東将軍倭国王を授号したのは462年です。すなわち、『宋書』を信じれば興も雄略天皇ということになってしまうのです。『宋書』記事と『日本書紀』には明確な齟齬があるのです。
それを認めれば、『日本書紀』の紀年を復元することが優先されるべきなのに、それを無視(放置)して獲加多支鹵大王=雄略天皇説は定説化してしまっているのです。
定説となってしまったいま、それを覆すことは非常にむずかしいと思っていますが、『日本書紀』の紀年を復元すると471年は必ずしも雄略天皇の治世とは限らないのです。
それは、『宋書』の引用する倭王武の上表文からも明らかとなります。
478年5月に宋の都建康に着いた武=雄略天皇の朝貢使が携えていた上表文を読めば、雄略天皇が即位されたのは、上表文が書かれた時点からさほどさかのぼらない年であったことがわかります。
つまり、雄略天皇の即位が450年代や460年代であったはずはなく、470年代なかばであったと推定できるのです。
そのようなことを、YouTube古代史新説チャンネルの今年最初の動画にまとめてみました。獲加多支鹵大王=雄略天皇説に意義のある方はぜひご視聴ください。
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