7月5日、吉野ヶ里遺跡で石棺が埋め戻されたというニュースが流れました。
昨年6月に「謎のエリア」から発見されて、全国の注目を集めた箱式石棺です。
※産経ニュース(www.sankei.com)2023/6/14より
保存のための埋め戻しに際して、石棺内調査の報告もありました。
報道された調査結果は次の3つでした。
1)石棺内の土から人間を含む動物由来のリン酸が大量に検出された
2)石の蓋に刻まれていた×印のような線刻が墓の内部からも見つかった
3)赤色顔料はベンガラと水銀朱の2種類であった
1から、石棺内に人間が埋葬されていたことがわかりました。
石棺内部の幅が36センチメートルと狭いことから、何も埋葬されていないのではないかという憶測もありましたが、そうでないことが判明しました。
石棺内部が赤色顔料で塗られていたことから考えて、以前から推測されている通り被葬者は当時の有力者と考えてよいのでしょう。
2の線刻は×、あるいは+、あるいは卅などさまざまに見えるようなものです。
石棺の蓋の4枚の内3枚はもともと一枚だったものを割って使用していたことがわかっていました。板石は3枚ではなく4枚に割られて、4枚目が側壁として使われていたということのようです。
この線刻については、呪術的なものであるとか、夜空の星々を転写したものであるというような説が語られていますが、私は第一印象の通り作業台説を考えています。ただし、どのような作業であったかはまだ結論が出ていません。
3の赤色顔料については、ほとんどがベンガラで、ごく微量の水銀朱が混じっていたということのようです。
では、そのベンガラの産地はどこでしょうか?
それは、阿蘇で産出されたベンガラと考えてよいのではないでしょうか。
弥生時代に阿蘇谷といわれる阿蘇カルデラ内で大量のベンガラが生産されていたことは間違いありません。
カルデラ北西部の狩尾遺跡群の下扇原遺跡では、弥生時代後期の竪穴住居などからコンテナ24箱に及ぶベンガラが回収されています。近くには、ベンガラの原料であるリモナイトの鉱床もあります。
※地理院地図をもとに作成
【下扇原遺跡出土のベンガラ】
『狗奴国浪漫~熊本・阿蘇の弥生文化~』糸島市立伊都国歴史博物館2014より引用
また、同じ遺跡群の湯の口遺跡の2号石棺には大量のベンガラが用いられていましたし、近くの下山西遺跡の3つの石棺(2号石棺・3号石棺・4号石棺)には合計100キログラムを超えるベンガラが敷き詰められていました。
明らかにこの一帯がベンガラの生産地であることを証明しています。
【湯の口遺跡2号石棺】
『狩尾遺跡群―激甚災害にともなう埋蔵文化財の調査―』熊本県教育委員会1993より引用
【下山西遺跡の石棺】
『神のすむ郷・阿蘇ものがたり展』熊本県立装飾古墳館2006より引用
そして、熊本平野の集落遺跡からは、L字状石杵や石皿などのベンガラ精製用具がたくさん出土しています。私が邪馬台国の中心集落だったと考える方保田東原遺跡からももちろん出土しています。
阿蘇のベンガラは熊本平野の拠点集落を交易の窓口として各地へ届けられていたのではないでしょうか。
阿蘇の湯の口遺跡の2号石棺は箱式石棺で、年代は弥生時代後期後葉と推定されています。邪馬台国の時代、女王国の時代です。
吉野ヶ里遺跡謎エリアの石棺を邪馬台国時代のものと想定すれば、同じ時代に同じような葬送儀礼が行われていたということになります。そして、ベンガラは阿蘇から供給されていました。
それは、阿蘇・熊本平野と吉野ヶ里・筑紫平野に交流があったことを示しています。決して敵対してはいないのです。
吉野ヶ里遺跡は、私が筑紫平野を領域とする投馬国の中心集落と考えるところです。つまり、女王国の領域です。私のように投馬国と比定しなくても、ほとんどの方は筑紫平野を女王国の領域と考えられています。
すると、阿蘇・熊本平野は女王国と敵対する狗奴国ではないということになります。阿蘇・熊本平野は女王国の領域だと考えなければいけないのです。
そして、その様子は、まさに魏志倭人伝が記すように女王国の「山には丹あり」だったということになります。
最後に、阿蘇の鉄について。
阿蘇の下扇原遺跡では、集落内から1522点の鉄製品が出土しています。周辺の多くの遺跡からも大量の鉄製品が出土しています。
しかも、出土する鉄製品の多くが、使い捨てのように投棄されているようです。それが意味するのは、鉄製品を貴重なものだと考えていないのということです。それほど集落には鉄があふれていたのです。
この一帯の遺跡では集落内で鍛冶施設が発見されているので、鉄の加工がおこなわれていたことは明らかです。しかし、その鉄素材をどこから、どのように入手していたのかは謎なのです。
当時の鉄素材は朝鮮半島から入手していたと考えられています。当時の日本には鉄の製錬技術がなかったと考えられているからです。もちろん、その輸入ルートがあったことは間違いないでしょう。
しかし、阿蘇のような海から遠く離れた山の中に、大量の鉄素材が運ばれた理由が説明できないのです。
その一つの答えとして提示されているのが、阿蘇で加工された鉄製品の素材は輸入されたものではなく、阿蘇の集落内で製錬したものであるという説です。
ベンガラの原料であるリモナイトは鉄の原料でもあります。それがふんだんにあるわけですから、それを製錬して鉄製品まで作っていたと考えるのが合理的だというわけです。
この説は、製鉄炉など明確な証拠が見つかっていないため、現在のところほぼ否定されています。
ですが、原料はふんだんにあったのです。そこに、製鉄技術を持った一つの集団さえやって来れば、一気に普及するだろうと想像できます。当然、女王国あるいはその前身の倭国もそれを求めたでしょうし、運用後は管理下に置いたと思います。
何かしら未知の製錬方法が提示されるとか、遺跡から製錬の証拠が見つかるのを期待しています。
【参考文献】
『狩尾遺跡群―激甚災害にともなう埋蔵文化財の調査―』熊本県教育委員会1993
『狗奴国浪漫~熊本・阿蘇の弥生文化~』糸島市立伊都国歴史博物館2014
『神のすむ郷・阿蘇ものがたり展』熊本県立装飾古墳館2006
★以上の吉野ヶ里遺跡とベンガラと狗奴国について、YouTube動画にもまとめましたので、ぜひご視聴ください。
【古代史新説チャンネル】動画
吉野ヶ里遺跡と阿蘇ベンガラと狗奴国熊本説【邪馬台国の界隈052】
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