記紀の仮説 孝霊天皇 訂正版 | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

邪馬台国の道標(みちしるべ)

邪馬台国とお出かけ日記を交え、楽しめるブログ更新中。

今回は7代 孝霊「こうれい」天皇に関する記述を再確認ます。
 
孝霊天皇は、古事記で大倭根子日子賦斗邇命呼ばれ、日本書紀で大日本根子彦太瓊天皇呼ばれています。
古事記上巻では、神代七代4番目に登場する角杙神 活杙相当し、倭国を統治された方と思われます。
 
この方の即位の干支から推定すると、干支辛未で、日本書紀では在位期間76年になります。
孝霊天皇の「霊」は霊芝などを連想させ、長寿であったことが窺われます。
 
 
孝霊天皇 辛未→西暦11年即位
孝元天皇 丁亥西暦87年即位
 
 
孝霊天皇の宮は、黒田の庵戸宮となっており、吉野ヶ里遺跡のすぐ南にも伊保戸という地名があり、庵戸につながるのでこの辺りに比定できそうです。
古事記上巻名の「角杙神」の「くい」は、吉野ヶ里遺跡の環濠の杭を連想させるもので、この方の時代に環濠が掘られたのではないかと思われます。
 
 
後漢書東夷伝には、西暦57年に「倭奴國奉貢朝賀・・・倭國之極南界」と記されており、倭国が訪中して金印をもらったのがこの頃に相当します。
そして、「倭國之極南界」とあるように、都となるクニは倭国の南の方にあったことが窺われ、当時の倭国は北部九州一帯に限定されていたため、やはり吉野ヶ里遺跡付近に都があったことが有力になってきます。
訪中した結果、有明海方面では中国や朝鮮半島との往来に不便を感じ、後の時代には朝倉→福岡方面に遷都して行ったのではないでしょうか?
なお、金印が博多で見つかった理由として、福岡方面への遷都に伴い、金印の所持者が移動したためとも考えられます。
 
 
孝霊天皇の記述に、大吉備津日子命と若建吉備津日子命が、針間氷河で無事を祈って、針間を道の口として吉備國を言向け和したとあります。
瀬戸内海は無数の島々があり船で行くには難所が多数あったため、針を磨く出雲の斐伊川を遡って吉備国に入り、平定して行ったのではないでしょうか。
孝霊天皇以降3のお名前に「根子」と「日子」とありますが、これらは根の国である出雲と火の国(肥国)である熊本を指していると思われ、倭国の範囲には入りませんがこの頃には出雲や熊本辺りにも入植していたことが窺われます。
 
イメージ 1