記紀の仮説 孝元天皇 訂正版 | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

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今回は、8代 孝元「こうげん」天皇に関する記述を再確認します。
 
孝元天皇は、古事記では大倭根子日子國玖琉命と呼ばれ、日本書紀では大日本根子彦国牽天皇と呼ばれています。
古事記上巻では、神代七代の5番目に登場する意富斗能地神 大斗乃辨神に相当し、倭国を統治された方と思われます。
 
この方の即位の干支から推定すると、干支が丁亥で、在位期間57年であったと考えます。
 
孝元天皇 丁亥→西暦87年即位
開化天皇 甲申→西暦144年即位
 
孝元天皇の宮は、軽の堺原宮(日本書紀では境原宮)となっており、「さかい」の付く地名は、鳥栖市酒井東/西町、神埼市千代田町境原などがあります。
「軽」とは古代の市が開かれる所を指しているようで、魏志倭人伝にも「國國有市交易有無」という記述があり、この頃にも各クニで人の往来の多い場所に市が開かれていて、その近くに都があったと考えられます。
 
また、古事記の孝元天皇の名前や記載から以下の地名が想定できます。
 
玖琉→玖留目神→久留米に関係あり(久留米という地名の由来に、昔、玖留目神という方が居たからという説あり)
建波邇夜須毘古→旧福岡県夜須郡
許勢の小柄宿禰→佐賀市巨勢町
平群の都久宿禰、蘇賀の石河宿禰→福岡市早良区の旧7郷の平群、曽我
 
つまり、福岡市から佐賀市までの一帯のどこかに都があったと思われます。
市が開かれるような交通の要所で、久留米に近い遺跡を調べてみると、福岡県朝倉市にある平塚川添遺跡が見えてきます。
この遺跡は、吉野ヶ里遺跡と同様、多重環濠の遺跡で、福岡市から佐賀市へ通じる交通の要所で、水上交通路として使用されたと思われる筑後川の支流小石原川沿いにあります。
孝元天皇の宮は、この遺跡辺りにあったのではないでしょうか。
 
また、後漢書東夷伝には、西暦107年頃に「倭國王帥升等・・・願請見」と記されており、倭国の王「帥升」が生口を献じ訪中したのがこの頃に相当します。
「帥升」の「升」は、周代からある尺貫法の単位で10升=1斗となり、古事記上巻名の意富斗能地神の「斗」につながります。
つまり、訪中した王「帥升」とは、孝元天皇のことではないでしょうか。
 
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