記紀の仮説 景行天皇 訂正版 | 邪馬台国の道標(みちしるべ)

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今回は12代 景行「けいこう」天皇に関する記述を再確認します。
 
景行天皇は、古事記では大帯日子淤斯呂和気天皇と呼ばれ、日本書紀では大足彦忍代別天皇と呼ばれています。
古事記上巻では、天忍穂耳命「あめのおしほみみのみこと」に相当し、葦原中国への降臨を騒がしい状況だと言って回避し、息子の邇邇芸命に譲ってしまいます。
魏志倭人伝には、投馬國の官に、「彌彌(みみ)」という名が記されており、この方と思われます
 
 
日本書紀の記述から在位期間は60年と読めますが、この方の即位干支から推定すると、成務天皇と同じ干支の年に即位したことになるので、実際にはまだ天照大御神が倭国を統治されており、倭国の皇位にはつかれていないのではないかと思われます
 
 
天皇 辛未→西暦251即位
務天皇 辛未→西暦251即位
 
 
天皇の宮は、纏向の日代宮となっており、投馬国から纏向に赴任して、近畿地方に君臨されたのではないかと思われます。
そして、この頃に纏向遺跡の箸墓古墳などが建設されたのではないでしょうか?
また、古事記中巻の景行天皇の御子の小碓命(倭建命)の数々の活躍、前回お話ししたとおり、景行天皇の御子の成務天皇=邇邇命=倭建命の出来事を記したものと思われます。
 
 
景行天皇は、お名前が示すとおり天照大御神や倭建命の活躍の影を行く存在の方だったのではないでしょうか。
 
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